第六話 青春
日本特殊事案省が飲み薬を配布すると、いきなり記者会見で発表した。誰も一か月ぽっちで解決できるとは思っていなかったし、もちろん私もその一人だった。
でも、混乱が終わることじゃなく、現実が目を覚ましていくことに私は失望を感じている。
しかし私はいつも通り学校に行った。もういつも、に組み込まれた姫川さんと何でもない話をしながら学校の門を通り抜ける。
そして委員長と先生が、腕を絡ませながら登校しているところを見て、私は眼を逸らす。
彼らには彼らなりの幸せがある。だって先生も幸せそうな笑みを浮かべているじゃないか。私は隣を歩く、姫川さんを見た。
「また私のこと見てる~」と彼女はクスクス笑いながら言った。
ほんの最近、私は軽口というものを言えるようになった。それでもまだ慣れてはいない、あとちょっと時間があればいいのにと願っても時間は刻一刻と平等に迫ってきている。
黙り込んでずっと見つめている私に、姫川さんは顔を少し赤くさせ、恥ずかしそうに言った。
「私を見つめても何も出ないよ~。美人なのは認めるけど」
「うん、可愛い」と私は答えた。
姫川さんは私の肩を小突き、階段を上っていく。
先先行ってしまうのはまだ不安だけど、私のことを踊り場でしっかり待ってくれている彼女のことが好きだ。恋とか大それたものではないけど、憧れとして。
「ありがとう」
姫川さんは鼻をこすった。
「姫川だからね、私は誰とも仲良くなりたいし」
「そっか」
私たちは同時に教室の扉を開け、中に入る。初めこそ心配ばかりだった教室もすっかり私たちを空気として取り込んでいた。
イスに座り、姫川さんはグループに加わる。私もその中に入ってみたいと思ったことはあるけれど、今くらいの関係が一番いいとも思っている。けれども、どうせその中にすら入りたいと思うことは何となくわかる……私はそういう人間だから。
ちょうど薬ができるのはいいことなんだ。私にとっても、姫川さんにとっても。
能力によって変化する前の姫川さんのことを私はあまり知らない。今みたいに誰とでも友達になりたいと持っていたのか、それとも……全然違うのかも。
陰鬱な体のせいか、ページすら捲れない。現実を捲ることが出来る癖に……あぁあ、やっぱりどうしたらいいんだろう。分かんないよ。突然能力を得て、どうすればいいかなんて。
決して外には出していないけれど、心の中は台風のようにぐちゃぐちゃに引き裂かれ、悩みが渦巻いていた。
そんな私の肩を誰かがつかむ。
「ちょっと来て」とその声は言った。
私が内側に向いていた目を現実に引き戻すと、そこには委員長が立っていた。
キッチリとした制服を着ておきながら、やはり私より華がある。しかし今日唇に赤いリップを塗っているのか、小さな光沢を安っぽい蛍光灯で光らせている。
「でも、時間が」と私は言った。
時計を見ると八時四十三分。朝のホームルームが始まるまで残り二分。
けれども委員長はまたしても言った。
「そんなのどうでもいいでしょ。私の先生が何とかしてくれるって」
少し早めに教室に入ってきた先生が、委員長に目配せをしているのが見えた。
私はまたしても引かれるまま委員長について行く。委員長は迷いなく足を進め、まだチャイムが鳴っていないにもかかわらず誰もいない廊下をどうでも良さそうに素通りした。そして何故か持っている図書室のカギを開け、誰もいない貸出カウンターを通って二階に上がった。
自習室を開け、私たちはその中に入る。
委員長はまたあの汚れた机、私はその横に座った。
「えっと、どうしたの? 私、言ってないしどこにも――」
「分かってる。そんなこと言う度胸もないんでしょ、どうせ」
少しイラっとしたけれど、これは胸の内に収める。
委員長は椅子から立ち上がり、ホワイトボードの前に。カチカチとマーカーの蓋を開け閉めする音が、私たちしかいない自習室にむなしく響く。委員長の素はもとからこんな感じなんだろうな。私が勝手に理想を作っていたからで。
そして委員長はホワイトボードに一本の線を描いた。そして消し、また線を描く。
何回か繰り返した後やっと納得したのか、マーカーのふたを閉め、私に向ける。
「あなたも知ってるわよね。日本特殊事案省が経口薬を配布するって」
「ま、まあ知ってるけど」
「それであなたはどうしたいの?」
「どうしたいって……」
委員長はマーカーをホワイトボードに擦り付けた。マーカーの先がつぶれ、ぐちゃっと黒い丸がにじみ出る。
「分かってるでしょ、あれが投与されれば私たちは終わってしまう。もちろん私は抵抗するし、その願いを込めてる。薬をなくしてしまうって」
「そんなこと、私たちには……」
「出来ないって言うんでしょ、小心者らしいわね。世界を変えることはできなくても、小さな範囲なら変えられる。私は先生に薬が届かないように現実を歪めてみせる」
委員長は再びマーカーをホワイトボードに叩きつけた。小さなインクが散らばり、委員長の制服に黒いシミを転々と作る。
流石の私でも委員長が何を言わんとするのかは分かる。私は姫川さん、そしてクラスメイトをどうするのか聞いているんだろう。私は、諦めていた。諦めて、これが終わることを受け入れようとしていた……だって薬そのものをなかったことにできると思ってもいなかったから。
私は……どうすればいいの。
委員長は絶対に先生を渡さないつもりでいる。純愛だけど、純朴さの欠片もない願い。私も同じように思っているのかな。本当に姫川さんなら私の犠牲にしてもいいと思っているのかな。
答えられない私に委員長はいつものため息をついた。
「まぁいい。あなたが言った通り他人の願いはどうでもいいものだから。でも、私と先生の関係を邪魔するのは絶対に許さない。私たちは今幸せなの。この前なんて先生と一緒にお買い物に言ったんだから」
「分かってる。それだけは守る」と私は言った。
自分自身をどうするべきかは分からなくとも、委員長の恋路をわざわざ邪魔することは頭に思い浮かびもしない。だって幸せそうだから。
委員長はそんな私を見て確かめるように聞いた。
「本当に?」
「本当に――」と私は答える。
委員長は安心のため息をついた。完全に先の潰れたマーカーのキャップを閉じ、他のマーカーの中に混ぜた。ホワイトボードを消しながらかすかに呟く声が聞こえた。
「どうでもいい」
私が言った言葉なのに、なぜか私が言った気がしない。どうして私はどうでもいいとはっきりと言い切ってしまったのだろう。後悔が背中を伝ってくるけれど、言った言葉は取り返しがつかないと大昔から伝わっている。
私たちは自習室の扉を閉め、教室に向かった。そして教室に入った時はとっくにホームルームは終わっていて、一時間目が始まっていた。俯き加減で自分の椅子を引いて座る。委員長も遅れていたことにクラスメイト達はまだ驚いていたけれど、それもすぐ収まった。
姫川さんは私を見て目配せし、ニコッと笑った。
私も彼女に曖昧な笑みを浮かべる。すると姫川さんは「また後でね」と口を作り、黒板に向き直った。
私も机から教科書とノートを取り出し、机の上に並べる。黒板を写そうとシャーペンのノックを叩く。けれどもシャーペンは一向に書かれることなく、ただカチカチと聞こえもしない音を鳴らすだけ。
まだ悩んでる。うじうじと気持ち悪く……叫びたい。叫んですべてぶちまけてやりたい。
けれども現実はそれをさせるため歪むことはない。きっと私が本心から望んでいないことだからなのだろう。
そうこうしていると昼休憩がやってきた。
もちろん姫川さんが私の席にやってくる。
「ちょっと分けてよ!」と楽しそうに姫川さんは言った。
私のお弁当に指を伸ばし、お母さんが作った玉子焼きをヒョイととって自分の口に。
「食べないでよ」
「いいじゃん、たまにはさ」
「たまにはじゃないでしょ。昨日だってその前だって私のお弁当から」
「まあまあ」
普通におしゃべりができてしまう。
いいことなんだけど、でもちょっと嫌って言うか。わがままだけど、我がままになり切れてもないし。これも成長と言えば成長だと思う。昔ならずっと頷くか、話すときはいつも「あっ」とか「えっと」とかをつけてしまっていたのに、滑らかに言葉が出てくる。
「姫川さん、」
「どした~?」
姫川さんはパンを頬張った。今ならすぐに答えられないだろう。
私は言った。
「姫川さんは能力があったらどうするの?」
彼女はパンを飲み込み、パック牛乳をで喉を潤す。
私も卑怯なものだ、ジリジリとしたこの時間が永遠に続いてしまえばいいのにと望んでいるのだから。けれども相変わらず時間は進んでいった。そして姫川さんの頭は言葉をはじき出す。
「私は、どうだろうね。友達は自分の力で作りたいし、今の生活にもガッカリしてないし。やるとしたらお弁当の具材をとっても怒られないようにしたいかな」
そう言いながら姫川さんは私のお弁当から最後の玉子焼きを取った。お茶目な上目遣いで私に可愛く謝る。そうだね、私もそれくらいの願いの方が良かった……いいのかもね。
姫川さんは腰に巻いたセーターをふわりと揺らし、私から逃げようと席から立ち上がった。
「取って食べたりしないよ」
と私は姫川さんに言う。
姫川さんは笑いながら再び椅子に座り、私の顔を見つめた。
「あ、でも本当に嫌だったら、マジって言ってね」
「……食べる前に言ってほしかったけど」
「てへ!」
なんて姫川さんは自分で効果音を呟いた。呆れちゃう。でも、姫川さんとずっと一緒に居たいと私は思った。強く固く、そして願った。
……薬を届かないことを願ってしまいそうだな。もし明日の朝、姫川さんが変わっていたら私はどうしよう。いつも通りこうやって登校して、学校のことを話しながら昼食を取って、都合が良かったら放課後一緒に帰るみたいな……そんな小さな願いで、変えてしまうのかな。
「私は姫川さんのことが好きだったよ」
何言ってんだこいつ。そう自分のことを思ったけれど、姫川さんは笑いを収め、呟いた。
「もちろん」と。
そして私たちはいつも通り昼食を終え、初めて私から頼んで放課後一緒に帰ることにした。いきなり好きだとか言い始める人と良く姫川さんは付き合ってくれたと思う。私たちは適当な場所で別れ、そして互いの家時につく。
私自身が変わったのか分からないけれど……でも、いいよね。
――郵便局のバイクが私の家の前を通り去っていき、隣の家に封筒を入れていた。ボーっとしていた私は排気ガスを吸い込んでしまったせいか、両目から涙が垂れて、止まらなかった。




