第八章 語られない理由
音声データの余韻が、法廷に残っていた。
再生は止まり、機材は片づけられている。それでも、あの断片的な声は、誰の耳からも離れなかった。
検察官は、あえてそれ以上踏み込まない。
断定しない証拠は、押し切れば逆効果になる。ここでは“残す”ことが重要だった。
弁護人も同様に、深追いをしない。
代わりに、静かに次の論点へ進む。
「ここで、被告人の行動履歴について確認したいと思います」
提示されたのは、事件当日の移動記録だった。
交通系ICカード、周辺の防犯カメラ、携帯端末の位置情報。
それらはすでに提出済みの資料だ。新しさはない。
だが、弁護人は一点だけを強調する。
「被告人は、事件後、逃走していません」
当たり前の事実が、あらためて法廷に置かれる。
「凶器を隠していない。
証拠を処分していない。
翌日も、普段どおり職場に現れている」
検察官は反論しない。
否定できないからだ。
高瀬は、計画的な犯行を行った人物としては、あまりに無防備だった。
桐山の意識に、ある違和感がはっきりと形を取る。
もし高瀬が犯人だとしたら――なぜ、ここまで何もしないのか。
沈黙は、逃げではない。
少なくとも、この振る舞いは。
弁護人は、そこで言葉を選ぶ。
「被告人は、沈黙しています。
しかしそれは、真実を隠すためでしょうか」
法廷が静まる。
「それとも――
語ることで、誰かを傷つけることを避けているのでしょうか」
その瞬間、空気が変わった。
“動機”とは別の軸が、初めて示された。
検察官が即座に立ち上がる。
「憶測です」
正論だった。
だが、完全には打ち消せない。
高瀬の沈黙は、これまで一貫している。
自分を守るために見える瞬間もあった。
しかし同時に、誰かをかばっているようにも見える。
裁判官の視線が、高瀬に向く。
発言を促すものではない。
ただ、存在を確認するような視線だった。
高瀬は、その視線を受け止める。
そして、わずかに唇を動かす。
法廷が、息を止める。
だが、言葉は出なかった。
代わりに、高瀬は小さく首を振る。
否定でも、肯定でもない。
ただ、“今は語れない”という意思表示だった。
その仕草が、これまでで最も雄弁だった。
桐山は理解する。
高瀬は、沈黙を選んでいるのではない。
沈黙を引き受けているのだ。
誰かが語るべき言葉を。
あるいは、語られてはいけない事実を。
法廷は、その意味をまだ知らない。
だが、沈黙はもはや空白ではなかった。
それは、明確な重さを持つ“理由”になりつつあった。
次に呼ばれる証人の名前が告げられる。
その名に、桐山はわずかに目を細めた。
――ここから先は、沈黙だけでは済まない。
法廷は、いよいよ核心の人物に触れようとしていた。




