第七章 切り札
法廷に、わずかな緊張が戻ってきていた。
証言も、物証も、動機も揺らいだ。だが、それでも均衡は保たれている。検察と弁護、どちらにも決定打はない。
その均衡を崩すために、検察官は静かに立ち上がった。
「ここで、新たな証拠を提示します」
その一言で、空気が変わる。
傍聴席の背筋が伸び、裁判官の視線が前に集まる。
提示されたのは、音声データだった。
事件当日の夜、校舎近くで記録されたものだという。断片的で、雑音が多い。それでも、人の声が含まれていることは明らかだった。
再生が始まる。
低いノイズの中に、短い言葉が浮かび上がる。
はっきりとは聞き取れない。だが、感情だけは伝わってくる。苛立ち、抑えた怒気、そして――沈黙。
「この音声には、被告人の声が含まれている可能性があります」
検察官の声は冷静だった。
鑑定結果が続く。声紋分析、類似度、統計的可能性。断定ではないが、偶然とは言い切れない数値。
傍聴席がざわめく。
今まで“語らない存在”だった高瀬に、初めて「声」が与えられた瞬間だった。
高瀬は、初めてわずかに視線を落とした。
ほんの一瞬。だが、それを見逃した者はいなかった。
桐山の意識に、取り調べの終盤がよみがえる。
あのとき、高瀬は一度だけ言いかけて、やめたことがあった。
何を言おうとしたのか。
それが、この音声とつながっている可能性を、桐山は否定できなかった。
弁護人はすぐに立ち上がる。
「可能性、ですね」
声は低いが、鋭い。
「断定ではない。
しかも、録音環境、雑音、加工の有無。
この音声が“そのままの事実”だと、どこまで言えるのでしょうか」
検察官は一歩も引かない。
音声の取得経路、保管状況、解析過程。すべては手続きどおりだと説明する。
だが、法廷の空気は変わっていた。
これは証拠だ。
しかし同時に、解釈を強要する証拠でもある。
再生が、もう一度行われる。
今度は、誰も息をしない。
音の中に、言葉になりかけた沈黙がある。
怒鳴るでもなく、否定するでもなく、ただ感情が押し殺されている。
その沈黙は、高瀬の“今”と重なる。
高瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
裁判官の視線と、初めて真正面から向き合う。
発言を求められているわけではない。
それでも、法廷全体が、彼の次の動きを待っていた。
沈黙を続けるのか。
それとも――。
高瀬は、何も言わなかった。
ただ、まっすぐ前を見つめ続ける。
その姿が、音声データ以上に強い問いを投げかける。
これは告白なのか。
それとも、はめ込まれた声なのか。
法廷は再び、判断を保留したまま静まり返る。
切り札は切られた。
だが、勝負はまだ終わっていない。
沈黙は、なおも法廷の中心にあった。




