第六章 動機という影
これまで、法廷で語られてきたのは事実だった。
誰が、いつ、どこにいたのか。
何が使われ、どんな痕跡が残ったのか。
次に問われるのは、もっと曖昧で、しかし避けて通れないもの――動機だった。
検察官は、高瀬の経歴を淡々と読み上げる。
職歴、家庭環境、人間関係。数字と肩書きが並ぶが、そこには決定的な歪みは見当たらない。むしろ、平凡と言っていい。
だが、そこで一つの関係性が提示される。
被害者との接点。
過去にあった、表面化しなかった小さな衝突。
「被告人と被害者は、事件の数か月前、校内で口論をしていたとされています」
その言葉に、傍聴席がざわめく。
大きな争いではない。ただの言い争い。だが、“動機”という言葉が添えられた瞬間、それは意味を帯び始める。
証人として呼ばれたのは、同僚だった。
彼は記憶をたどるように語る。
「確かに、口論はありました。でも……深刻なものではなかったと思います」
「被告人は感情的でしたか」
「いえ。むしろ、抑えているように見えました」
抑えている。
その評価は、危うかった。
感情を抑える人間は、爆発する――
そんな固定観念が、法廷のどこかで静かに芽を出す。
高瀬は、そのやり取りを聞いても表情を変えない。
沈黙は、否定にも肯定にも見える。
桐山の意識に、取り調べ室の光景がよみがえる。
高瀬は、あのときも同じだった。声を荒げることも、感情を露わにすることもなかった。ただ、質問を受け止め、必要最低限の言葉だけを返していた。
検察官は続ける。
被害者が抱えていた問題。職場での立場。周囲との軋轢。
それらが、高瀬との関係と結びつけられていく。
一つひとつは弱い。
だが、積み重ねられることで、物語のような輪郭を持ち始める。
弁護人は、ここで初めて強く動く。
「口論があった。だから殺意があった。
その論理は、どこで成立するのですか」
声は穏やかだが、問いは鋭い。
「衝突のない人間関係など、存在しません。
それを理由に“動機”と呼ぶなら、この法廷にいる多くの人が、同じ立場に立つことになる」
法廷が静まる。
誰もが、自分自身の過去を一瞬、思い返す。
検察官は即答できない。
代わりに、積み上げた事実を再度なぞる。関係性、時間、状況。
だが、動機は数字のようには並ばない。
高瀬の沈黙が、ここで重みを増す。
感情を語らない被告。
動機を否定もしない被告。
それは、法廷に問いを返しているようだった。
――人は、どこから罪を疑われるのか。
――沈黙は、不利なのか。それとも、誠実なのか。
桐山は理解する。
この章で揺らいだのは、高瀬ではない。
**“人を裁く側の確信”**だ。
動機は提示された。
だが、納得はされていない。
法廷には、説明しきれない空白だけが残り、次に来る一手を、誰もが待っていた。




