第五章 物証の温度
次に法廷に提示されたのは、感情ではなく物だった。
写真、鑑定書、数値。人の記憶とは異なり、揺らがないはずの存在。
検察官は静かに言葉を選びながら、凶器とされた器具の写真を示す。
金属の光沢。付着した微量の血痕。鑑識による鑑定結果。
そこには迷いがない。整然と並ぶ事実が、法廷に冷たい秩序をもたらす。
「被告人の指紋が検出されています」
その言葉に、傍聴席の空気がわずかに動く。
誰かが小さく息を吐いた。
高瀬は動かない。
写真を見ることもなく、前方を見据えたまま沈黙を保つ。その姿が、物証の確実性を逆に際立たせる。
鑑識官が証言台に立つ。
検察官の質問に、淡々と答える。検出方法、誤差の範囲、再現性。
専門用語が並ぶが、説明は明快だった。鑑定は適切に行われ、手続きにも瑕疵はない。
一見すると、反論の余地はない。
だが、弁護人はすぐには動かなかった。
しばらく鑑定書に目を落とし、間を置いてから、穏やかな声で問いかける。
「その指紋は、いつ付着したものと考えられますか」
鑑識官は即答しない。
「時期の特定は困難です」
「事件当日とは限らない、という理解でよろしいですか」
「理論上は、はい」
その瞬間、法廷の温度が変わった。
冷たく完璧だった物証に、わずかな“余白”が生まれる。
桐山の意識に、過去の現場がよみがえる。
凶器は校舎内の備品だった。多くの人間が触れる可能性がある。清掃、授業、点検。
事件当日以前に指紋が付着していた可能性は、確かに存在する。
弁護人は続ける。
「では、その指紋が事件と直接結びつくと断定することはできますか」
鑑識官は言葉を選ぶ。
「……状況証拠と合わせて判断されるべきものです」
“合わせて”。
その言葉が、証言と同じように法廷に残る。
物証でさえ、単独では語らない。
検察官はすぐに補足に入る。
現場状況、時刻、他の証拠との整合性。論理は崩れていない。
だが、完全だったはずの線は、一本の太い線ではなく、複数の細い線の集合体として見え始める。
高瀬の沈黙は、ここでも意味を持つ。
もし彼が否定すれば、物証は攻撃対象になる。
だが否定しないことで、判断はすべて法廷側に委ねられる。
桐山は理解する。
これは証拠の崩壊ではない。
証拠の性質が変わり始めているのだ。
確実な事実から、解釈を必要とする事実へ。
法廷は、再び選択を迫られている。
鑑定書は机に戻され、証言台が空く。
次に何が出てくるのか、誰も確信を持てない。
静寂の中で、高瀬は一度だけ、わずかに瞬きをした。
それは合図でも、感情でもない。
ただ、沈黙が続いているという事実の確認にすぎなかった。
法廷は、その沈黙の意味を、まだ測りきれていなかった。




