第四章 揺らぐ証言
法廷に入る空気が、前日までとはわずかに違っていた。
それは明確な変化ではない。だが、証言台に向けられる視線の質が、確実に変わっていた。
最初の証人は、事件当日、校舎近くを通りかかった会社員だった。
彼は淡々と、見たままを語る。時刻、場所、人物の姿。警察での供述と大きな違いはない。言葉も慎重で、感情を抑えている。
しかし、弁護人の質問が始まった瞬間、法廷の空気がわずかに揺れた。
「その人物を見た距離は、どのくらいでしたか」
証人は一瞬、視線を泳がせる。
「……二十メートルほどです」
「曇天でしたね。視界は良好でしたか」
「ええ……たぶん」
“たぶん”。
その一語が、静かな水面に小さな波紋を広げた。
裁判官の視線が証人に注がれ、検察官のペンが止まる。傍聴席では、誰かが息を飲む音がした。
高瀬は相変わらず沈黙している。
だが、その沈黙は、証言の一言一言を増幅させる装置のように機能していた。証人の曖昧さが、必要以上に際立つ。
弁護人は追及を緩めない。
距離、角度、時間帯、服装の色。細部を積み重ねるごとに、証言は少しずつ形を変えていく。嘘ではない。ただ、人間の記憶が持つ揺らぎが、露呈していく。
桐山の意識は、取り調べ室でのやり取りを思い返していた。
あのとき、この証人はもっと自信を持って話していたはずだ。警察官の相づち、書き取られる調書、場の空気。それらが、記憶を“固めて”いた可能性は否定できない。
次の証人は、事件現場近くに住む主婦だった。
彼女は被告を直接見たわけではない。ただ、物音と人影を見たという。
「怖かったです。何かおかしいと思って……」
その感情は本物だった。
だが、感情と事実は必ずしも一致しない。弁護人はそこを丁寧に切り分けていく。
「そのとき、人影は何人でしたか」
「一人……だったと思います」
再び、“思います”。
法廷に、目に見えない傾きが生まれる。
証言は崩れていない。だが、絶対性を失い始めている。
検察官はすぐに立て直しを図る。
鑑識資料、時刻表、位置関係。客観的事実を次々と提示し、証言を補強する。法廷は再び“理屈”の領域に引き戻される。
しかし、そのたびに、高瀬の沈黙が影を落とす。
否定もしない。肯定もしない。
ただ、すべてを受け止めるように、そこにいる。
桐山は思う。
沈黙とは、防御ではない。
それは、法廷という場に、判断を突きつける行為だ。
証言を信じるのか。
証拠を信じるのか。
それとも、自分自身の直感を信じるのか。
法廷にいる誰もが、その選択から逃れられなくなっていた。
最後に呼ばれた証人が証言台を降りたとき、空気は確実に重くなっていた。
決定的な崩れはない。だが、確実な“揺らぎ”が残った。
高瀬は、その揺らぎの中心に、無言で立っている。
法廷は静まり返り、次に提示されるものを待つ。
証拠か、反証か、それとも――沈黙を破る何かか。




