最終章 沈黙なる正義
判決から三日後、桐山のもとに一通の簡易書留が届いた。
署の郵便受けに差し込まれていたそれは、他の書類に紛れていながら、なぜか異様に目についた。
差出人の欄は空白だった。
だが、封筒の重みと、紙質の硬さが、ただの私信ではないことを物語っていた。
桐山は、その場ですぐに開封しなかった。
机に置き、しばらく眺める。刑事としての勘が、強く警告していた。
――これは、受け取った瞬間から、何かを失う類のものだ。
それでも、避けることはできない。
桐山は封を切った。
中から出てきたのは、折り畳まれた紙が一枚と、古いICレコーダーだった。
使い込まれた痕跡があり、角はすり減っている。
紙には、簡潔な一文だけが印字されていた。
――これを、あなたが刑事であるうちに。
説明はない。
だが、なぜ自分なのかは、桐山には分かっていた。
机の上にICレコーダーを置き、指先でしばらく触れる。
再生ボタンは小さく、押せばすぐに音が出る。
桐山は一度、深く息を吸ってから、ボタンを押した。
最初は雑音だった。
擦れる音、遠くの足音、風切り音のようなもの。
だが、次第に輪郭を持った声が浮かび上がる。
被害者の声だった。
法廷で何度も名前を呼ばれ、記録として消費された声。
だが、これは違う。
感情が剥き出しで、生々しい。
――「お前が言わなきゃ、全部終わるんだよ」
怒りと焦燥。
追い詰められた人間の声だ。
一拍、沈黙。
次に入ってきた声に、桐山の背筋がわずかに強張る。
高瀬の声だった。
法廷で問題になった音声とは違う。
ノイズに埋もれていない。
はっきりと、抑制された調子で響く。
――「それはできない」
被害者の声が荒れる。
――「じゃあ、俺が全部被るしかないだろ!」
言葉の意味が、ここで初めて正しい文脈を持つ。
責任の押し付け合いではない。
“誰が壊れるか”の選択だった。
そこで、第三の音が入る。
若い足音。
慌ただしく、迷いを含んだリズム。
桐山は、思わず再生機を強く握った。
若い声が、震えながら叫ぶ。
――「やめて……!」
次の瞬間、鈍い衝突音が鳴る。
硬いものが、柔らかいものに当たった音。
それきり、音は消える。
完全な沈黙。
数秒後、低く、はっきりとした高瀬の声が響く。
――「……動くな。救急は呼ぶ」
若い声が、泣き崩れるように答える。
――「俺が……俺が……」
高瀬は、即座に遮る。
――「名前を言うな。
今ここで、何も言うな」
録音は、そこで終わっていた。
桐山は、しばらく再生機を見つめたまま動けなかった。
耳鳴りがする。
すべてが、つながった。
事件の瞬間にいたのは、高瀬ではない。
致命的な一撃を与えたのは、
被害者と関係を持っていた未成年の生徒だった。
衝動。
恐怖。
逃げ場のない閉鎖空間。
高瀬は、止めに入った。
だが、間に合わなかった。
そして、選んだのだ。
真実を語れば、未成年は社会的にも法的にも破壊される。
沈黙を引き受ければ、自分が裁かれる。
高瀬は、迷わなかった。
法廷で語らなかった理由。
逃げなかった理由。
音声に決定的な言葉が残されなかった理由。
すべては、守るべき対象が、法の外にあったからだ。
桐山は、椅子に深く腰を下ろす。
刑事として、してはいけない理解をしてしまった自分を自覚する。
法的には、判決は正しい。
証拠も、手続きも、非の打ちどころはない。
だが、正義は――
最初から、法廷の中にはなかった。
数日後、高瀬からの手紙が届く。
便箋一枚。達筆で、迷いのない文字だった。
――あなたが真実に辿り着いたなら、それでいい。
――語らなかったのは、逃げではありません。
――あれは、私の選択です。
署名は、ない。
桐山はその手紙を読み終え、静かに折り畳む。
報告書は書かない。
上司にも、誰にも話さない。
それが、刑事としての裏切りだと分かっていても。
法は、高瀬を裁いた。
だが、高瀬は、別の正義を選び取った。
声にしない正義。
裁かれない正義。
沈黙の中にしか存在しえない正義。
街は今日も、何事もなかったように動いている。
事件は記録となり、人々の記憶から薄れていく。
沈黙は、事件を終わらせた。
そして――
本当の真実だけが、誰にも知られず、そこに残った。




