はじまりの日
あたたかな昼下がり、街で唯一の喫茶店に微睡む人影が一つ——。
始まりは唐突だった——。
いや、そう言ってしまえればよかったのだけれど。
暗く湿った路地裏に誰かの靴音が響く。ひどく慌てた足音。強く擦れた音がして、何かが地面にぶつかった音。金属のゴミ箱が倒れるけたたましい音が逃げゆく者に牙を剥く——。
暖かな風が吹き込む、ある日の午後。経営する喫茶店の営業準備の最中。午後のティータイムに向けて作業していたはずの手は、何故だか、窓辺に置かれたカフェテーブルの上にだらんと置かれている。椅子に座り、テーブルの上の腕にゆっくりと頭を乗せて、視線をゆらりと遊ばせていた。
——このまま椅子にもたれて寝てしまってもいいな。
そう思ったが、ふと、もう一脚のカフェテーブルに目が止まった。ゆるりと描かれる曲線美に、どっしりとした天板が乗るテーブルの上に置かれたティーカップが、なぜだか、居心地が悪そうに見えた。
だいぶ前に買った安物だからだろうか。
——カランカラン。
ドアベルが来客を知らせ、慌てて視線をそちらへ向けた。小さな子供のようだ。履き潰された薄汚れた靴に、サイズの合わない、これまた薄汚れた服——どうやら、大変な事情を抱えているらしい。
「あの……」
ハッとして、慌てていらっしゃいませと述べる。
すると、子供は視線を彷徨わせてから、ひどく申し訳なさそうに口を開いた。
「少しでいいので——」
ああ、パンなどの食べ物が欲しいんだろう——可哀想なくらい痩せた体を見つめ——そう思って、口を開こうとした時、「血が欲しいんです。血が……足りないんです」——まて、この子は一体なんと言った?
思わず、口を開きかけた体制のまま固まる。
何も言えない私に、子供は、すみませんと一言だけ言って、くるりと背を向け、たっと走り出す。
「待って!」思わず、口から言葉が飛び出た。
自分の発言に驚いて、一瞬思考がフリーズする。
その間に子供は店を出て、今や街の雑踏に紛れてしまいそうだ。
足を一歩踏み出す。さっきの子供のおかしな発言も、どうだっていい。もしかしたらあの言葉は、あの子にとってのSOSかもしれないんだ。その可能性があるなら、私はあの子を救うべきだ。
早く、追わなければ——
あの子を今まで一度も見かけたことはないから、この街の地理に詳しくないと思って、きっとすぐに探し出せるだろうと考えていた。だが、
「はぁ……、はぁ……っ」
息が切れ、足を止めてしまう。ふらつく体にもっと運動しておくんだったと、己の運動不足をなげく。
いかんせんこの街は路地裏が多く、入り組んでいる。子供が逃げた方向しか見ていないので、これだけ探しても見つからないとなると、諦めるしかなさそうだ。
無駄足だったかと肩を落としたその時、ガシャンッ——金属製のものが立てる大きな音が路地に響いた。
音は近くだ。ここらで今の音を立てそうなものというと、ステンレスのゴミ箱か。頭の中でこの辺りの地図を広げる。今いる通りを左に曲がって、路地裏に入り、真っ直ぐ行ったところの突き当たりまでの道の途中にあるはずだ。
「行こう」
先程の子供でない可能性がないとも言い切れないが、ひとまず行ってみよう。そう決めて、息を大きく、すぅっと吸って再び駆け出した。
足音が路地裏に響く。左に曲がり、少しスピードが落ちる。曲がり切ったところで強く踏み込み、スピードを上げる。目的の場所が、視界に入る。
——人影がみえた。
あの子供だ。
「君……!」息も絶え絶えに、呼びかける。走るのを止め、ゆっくりと歩み寄る。
「良かった、ここら辺は治安が悪いから……」
酷く驚いた顔でこちらを見上げた子供に、安堵の息が漏れた。
「どうして」
大きく見開かれた瞳は不安に揺れていた。
「あなたは、どうして……そこまで?」
私が追ってきたことに動揺しているようだ。
「『どうして』なんて、自分でもわからない。けど、」
何か事情があるなら、助けが欲しいなら、「君に手を差し述べるべきだと思ったんだ。」ねっと笑いかけてみる。
「でも、血を求めた。怖がるでしょ、普通は」
どこか気まずそうな様子でそろそろと目を逸らす。
「血ぐらいいいって、いいって!」からからと笑いながらいうと、酷く怯えた顔をされた。
「あなた、本当に、人間……?」
「ええっ」と今度はこちらが驚いた顔をする番だった。
「だって、必要なんだろう」ならあげるよ——そう言うと、血を求めてきたときにも見せた様な、申し訳なさそうな顔になる。
「いいの、やっぱりいいわ」ふるふると首を横に振る。
「何故?さっき言ったじゃないか」
「ほんとうに、いいのよ。だって、だってあたし……ッ」言葉を詰まらせたその子は、はらはらと大粒の涙を流し始める。泣き始めてしまったことに慌てて「ハ、ハンカチ、どこ、どこだっけ!?」と探しだすと、その子はぽかんとした表情を見せた後、ふふっと笑い出した。
「ええっと……?」
「ごめんなさい、慌てる貴方があまりにも面白かったから……。つい——」
そうだったのかと納得して、先程の相手の話の続きを聞いてもいいか少しためらいつつ、口を開いた。
「そのさ、さっきの、血がいらなくなった理由を教えてくれたりするかい?」そう言ってから、あまりにもストレートに聞きすぎたかと思い、慌てて、いや、別に言わなくてもいいんだけどなどと、思いつく限りの言葉で先程の発言の印象をどうにか挽回しようとしていたら、その子供はクスリと笑い、
「いいわ、あのね、あたし——」
——バンパイアなの。
バンパイアっていうと——確か人間の血を吸うっていう、あの?——そうよ、あたしは人の血を吸う生き物よ。日陰のね。
そう憎々しげに、私の言葉に同意した子供は、パッと表情を変えて——「でも!あたしは人間の血は吸わないわ。だって血が飲めないんですもの!」酷く嬉しそうに笑って見せた。
「バンパイアなのに?」不思議そうな表情を作り聞くと、
「バンパイアなのによ」おかしそうな表情で返された。
なら何故、先程自分に血をくれと頼んだのか。その疑問はすぐにその子の次の発言で解消された。
——あたし、潔癖症ってやつらしいのよ!人間の血に対してだけね!
なるほど、そう頷くだけに留めた。




