女神の末娘
「では、行ってまいります」
「期待しているぞ」
「気をつけてね」
「行ってらっしゃい」
家族の声に笑みで応え、私は翼を広げた。
目の前に広がるのは、薄汚れ、疲れ果てた人々の群れ。
胸が痛んだ。――救わなければ、と思った。
「可哀想に……」
零れた涙は真珠となり、それを手にした人々は貧困から抜け出した。
私は世界を巡り、母上や兄上、姉上から託された使命――“救済”を果たしていった。
けれど、ただの使命ではなかった。私は人間を愛していた。
いつしか、彼らを我が子のように思うようになっていたのだ。
私が教えを説いた人間の中に、十三人の熱心な者がいた。
私は彼らにすべてを授け、世界へ広めるよう頼んだ。
だが、その中の一人が言った。
「私は、あなた様の隣にいたいのです」
曇りのない瞳に、私は頷いた。
十二人を旅へと送り、一人を傍に置いた。
「女神様、朝です」
いつものように彼が朝を告げる。
私たちは共に旅をし、いつしか王宮にまで招かれるようになった。
王は笑顔で迎えたが、その背後には――妖しい光を宿した側近の男がいた。
私は王に教えを説いた。
人々が正しく信仰し、救われるように。
だが、その裏で私の“子”との時間は減っていった。
ある日、王に呼ばれ、玉座の間に向かうと――
そこには王と、あの男、そして私の“子”がいた。
「女神様、もっと多くの人を救ってもらいたいのです」
そう言った瞬間、足元が妖しく光った。
体が縛りつけられる。
「これは……?」
「呪術ですよ」
笑う側近。
王は沈黙し、私の“子”の瞳は虚ろに沈んでいた。
「ジョエル様、次はあなたの番ですよ」
「ダメだ、その力を使えば――!」
制止は届かず、再び呪術陣が輝く。
神力が体から抜け落ち、男の肉体が若返っていく。
――私の力を奪ったのだ。
「そんなことをしても、その身は持たぬぞ!」
だが、私は彼を殺せなかった。
あのような男ですら愛していた。子のように。
「お前は、救えぬ道を進んでいる。
罪を雪ぐには己の血で償うしかない」
「……あなた様も、私を否定するのですか」
その言葉が、私の心を刺した。
やがて兄上からお達しが届いた。
『ルナ、私の可愛い妹よ。大罪人を殺せ。でなければ、お前が死ぬぞ』
「兄上……私にはできません」
『なぜだ』
「私は……人を愛してしまったのです」
『あれはもう人ではない。殺せ!』
「それでも、元は私の子です」
『ならば――人間に堕とす』
雷鳴が落ち、体を貫いた。
白い翼がもがれ、瞳の光は失われ、髪は世界の色を映すだけの透明な糸となった。
血の涙が頬を伝い、地下牢に繋がれた全身を赤く染めていく。
「兄上……」
兄は顔を背けた。
ーーそれから、私の“人”としての輪廻が始まった。
しかし、人間たちは私の微かに残った神力を求めて、生まれてすぐの私の命を奪い合った。
生まれては殺され、また生まれ変わっては殺される――その果てしない繰り返しの中で、私の神力はとうとう底をついた。
そしてようやく、私は生まれてすぐ殺されなくなったのだ。
だが、人が私を求めるのは本能。止めることなど誰にもできはしない。
私の心は壊れかけていた。
愛する子供たちに何度も殺され、特に深く愛した子には失望され、兄には見放された。
私は恐怖した。自分がこれ以上、完全に壊れてしまうことを。
だから――私は記憶を封じた。願いを込めて。
けれど、残された力では完全には封じ切れなかった。
中途半端に残った記憶が、私の中に“異常なまでの人への愛”を呼び起こした。
理由もわからぬまま、私は人を愛し、裏切られ、殺される生を繰り返した。
そんなある日、私は懐かしい顔に出会った。
「ルナ様!」
その声に名を呼ばれた瞬間、封印が解けた。
そして――私の心に、確かな亀裂が入った。
何度繰り返しても、私の愛は一方的で、誰にも返されることはなかった。
「……そういえば、お前は姿を変えないな」
「私は時を操れるのです。時の神様から祝福を頂きました」
「祝福を?」
「はい。それを人たちは“スキル”と呼び、行使することができます。私は自分にそれを使い続け、この姿を保っているのです」
「……私はもう神ではなくなってしまったのだ」
「ルナ様……それでも、私たちにとってあなた様は仕えるべきお方であり、女神様なのです」
「……」
人に堕ちた私に、なおも尊敬の眼差しを向けるその子が、ただ愛おしかった。
「ルカ。お前に頼みたいことがある」
濡れた緑の瞳が揺れ、迷いを映す。
「お前に、これを預ける。これに私の記憶を篭めよう。――次に私に会った時にでも、返しておくれ」
「ルナ様……?」
「もう……疲れたんだ」
そう言って、私は指輪を彼の掌にそっと乗せた。
瞼を閉じようとしたその時――
『ルナ』
「兄上……」
『……こんな姿になっても、お前は人を憎まないのだな』
「私の大事な子ですから」
『……お前が次にそれを手に取ったとき、もし心が癒えていたなら、記憶と、取り上げていた神力を返そう。そうすれば天界に戻ることもできるだろう』
「兄上は、私を見捨てたのではないのですか?」
『私たちのために死力を尽くす、慈悲深い妹を見捨てる理由があるものか。――人間、頼んだぞ』
兄上は天へと帰っていった。
その声はひび割れた私の心に染み入り、気づけば頬を伝う涙が落ちていた。
私はそのまま、ルカの腕の中で静かに息を引き取った。
それから何百回も、彼に会っては指輪を受け取った。
けれど、記憶が戻ることは一度もなかった。
死ぬたびに記憶は指輪へと還元され、深い絶望だけが私の中に残っていった。
私は水の中へと放り込まれた。
このまま、一人でいたい。
仄暗い水の中で、膝を抱えて丸くなる。
暗くて、狭くて、でも不思議とあたたかい。――ずっとこのまま眠っていたかった。
けれどその願いは、唐突に破られた。
また、新しい生が始まる。
「ねえ、この子全然笑わないよ」
「ほんとだ。変顔でもしてみる?」
私の誕生を祝うように、二人の金髪の子供が渾身の変顔をしてみせた。
それが可笑しくて、思わず笑ってしまった。
長い間、忘れていた感情が胸の奥に溢れた瞬間だった。
あの日、私は――
ルナリアとして、生きていくことを決めたのだ。




