旅立ち
仄暗い水の中で、ひとり丸まっていた。
暗くて、狭くて、あたたかい。ずっとこのまま眠っていたかった。
けれどその願いは、唐突に破られた。
激しい衝撃と共に、世界が裂ける。
「奥様、元気な女の子ですよ!」
光が見えた気がしたのに、視界は真っ暗なままだ。近くで、穏やかな鼓動を感じる。
「やだ、この子、泣いてないわ!」
体を激しく揺さぶられ、気持ち悪さに泣き叫んだ。
「あぁ、やっと泣いた」
安堵の声。――もう、いいから寝かせてほしい。
疲れ果てた体は、温かな腕に包まれて再び眠りについた。
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それからしばらくの間、目の見えない世界が続いた。
その間に私は「ルナリア」と名付けられたらしい。
どうやら兄と姉がいるらしく、二人はよく私の顔を覗きにきていた。
「わあ、もちもちしてるね」
「静かに、見つかっちゃうよ」
二人はこそこそと笑いながら会いに来て、そして教師に見つかっては引きずられていった。
やっと静かになった。――騒がしいったらありゃしない。
生まれてから、母も父も顔を見せない。
そんな私を、メイドたちも次第に雑に扱うようになっていった。
兄と姉も、やがて来なくなった。
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冬。私の誕生日。
久しぶりに家族全員が集まり、私を祝ってくれた。
「ねえ、なんでこの子笑わないの?」
「ほんとだね、つまらなさそう」
二人が顔をしかめ、変顔を始める。
あまりにも馬鹿らしくて、思わず笑ってしまった。
「ねえ見て、笑った!笑ったよ!」
「本当だ!」
二人は興奮してはしゃぎ、母はやさしい声で言った。
「ルナリア、今日はあなたの特別な日ですよ。なんと、誕生日プレゼントもあります」
母から手渡されたのは、小さなおもちゃだった。
みんなで食卓を囲み、笑い合う。――あたたかくて、胸がくすぐったかった。
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三歳になった。
お兄様とお姉様は相変わらず忙しそうだけれど、今日は誕生日。私が主役の日だ。
「ルナリア、お誕生日おめでとう。はい、新しい絵本よ」
「ありがとう、お姉様!」
うれしくて笑うと、母がふと微笑みながら言った。
「あなたに弟か妹ができます」
「えっ、私、お姉ちゃんになるの?」
「ええ、だからいい子にならなくちゃね」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
――今までの私は、いい子じゃなかったの?
けれど、聞き返す勇気はなかった。
「うん、頑張るね」
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次の日から、家庭教師がついた。
「はあ、こんな簡単なことも間違えるんですか?あなたのお兄様やお姉様はすぐに理解できたのに」
「……ごめんなさい」
間違えるたびに、鞭が振り下ろされる。
痛い。でも、正解すればいいだけ――そう言い聞かせていた。
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ある日、休みをもらって散歩に出た。
屋敷の外にある演習場では、騎士たちが剣を振るっている。
その中に、私より少し年上の男の子がいた。
「ねえ、あなたは何をしているの?」
「ん?訓練だよ!親父みたいな騎士になるんだ!」
「楽しい?」
「うん!めちゃくちゃ楽しい!」
その笑顔がまぶしくて、私は思った。
――今年の誕生日プレゼントは、これにしよう。
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「失礼します。お父様、お願いがあります」
「なんだ」
「私も騎士たちと訓練をしてみたいです」
「はあ?お前は令嬢だ。そんなことを考える暇があるなら社交界で役立つことを学べ」
「……はい」
却下された。
けれど諦めたくなくて、私はこっそり朝早く起きて真似をした。
体力も筋肉も足りないけれど、動くのが楽しかった。
――生きている、って感じがした。
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「ルナリア様、奥様がお呼びです」
「お母様が?」
部屋に入るなり、頬を打たれた。
あまりの痛さに、何も言えなかった。
「あなた、何を考えているの?騎士に混じるなんて。アリスはそんなこと言わなかったわ」
母の声は冷たく、目は笑っていなかった。
「ルナリア、あなたはもうすぐお姉さんになるのよ。いい子にすると約束したでしょう?」
「……ごめんなさい、お母様」
叱責のあと、母はやわらかく頭を撫でた。
その温度が、かえって怖かった。
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夏。
夜、屋敷中が騒がしくなった。母が産気づいたのだ。
やがて、男女の双子が生まれた。リリカとリアン。
屋敷中の人々が笑顔で迎え、二人を抱き上げた。
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六歳になった。
「きゃっ」
「待ってください、そちらは!」
妹のリリカが走ってきて、私にぶつかって尻もちをついた。
「大丈夫?」
「あっ、ごめんなさい、ルナ姉様!」
「怪我はない?」
「うん、ないよ」
「なら、よかった」
双子は屋敷の人気者だった。
私も彼らを少しだけ遠くから見守るようになっていた。
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こっそり街に出かけるのは、楽しかった。
屋台の香ばしい匂い、賑やかな声。
「二人の誕生日が近いし、リリカにはうさぎ、リアンにはクマの人形を買っていこう」
小遣いで人形を買い、丁寧に包んでもらった。
「ルナリア様」
帰宅するとちょうど侍女が呼びに来た。
「本日、旦那様が不在のため、今夜お祝いをするそうです」
「わかったわ」
まさか今日とは。ちょうどよかった。
食卓で双子に人形を渡すと、二人は満面の笑みで抱きついてきた。
その姿を見て、母は優しく笑っていた。
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冬。私の七歳の誕生日。
けれど父は仕事で、兄と姉は学園。
母と双子も外出していて、私は一人だった。
そのとき、初めて冬が寒いと知った。
八歳も、九歳も、祝われることはなかった。
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そんなある日、屋敷に旅商人がやってきた。
異国の食事、風の匂い、遠い国の人々――彼の話は尽きなかった。
胸の奥がざわめいた。
「…そうだ、旅に出よう」
髪を短く切り、街で買った庶民の服に着替える。
机の上に書き置きを残し、貯めた小遣いを袋に詰めた。
そして、家を飛び出した。
広い空の下、風が頬を撫でた。
時間を気にしなくていい世界。
その自由が、何よりも嬉しかった。




