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おかえりのために

作者: 喜々

ユウの店は、路地裏の奥にひっそりと佇んでいる。

外の世界から切り離されたような、薄暗い空間。

壁一面に並ぶ古びた端末と、棚に無造作に積まれた記憶カプセル。

空気は乾いていて、わずかに金属の匂いが漂っていた。


その日、ドアベルが小さく鳴った。

鈍い真鍮の音が、静寂を切り裂く。

入ってきたのは、長い黒髪を後ろで束ねた若い女性。

外の光を背負って立つその姿は、輪郭だけが白く縁取られていた。

「亡くなった弟との記憶を、売りたいんです」

彼女はミナと名乗った。声はかすかに震えていたが、瞳は揺れなかった。


「いらっしゃいませ。それではこちらへどうぞ」

ユウは無表情のまま、椅子を指し示す。

「売りたい記憶の期間は?」

「……生まれてから、最後の日まで」

その言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。


端子を装着し、装置のスイッチを入れると、低い駆動音が響き始めた。

モニターに映し出されたのは、陽射しの差し込む庭。

小さな少年と少女が、裸足で駆け回っている。

風が木々を揺らし、葉の影が二人の笑顔をまだらに染める。

——その笑い声が、ユウの胸を不意に締めつけた。


映像は次々と切り替わる。

夏祭りの夜、提灯の赤い光が揺れ、遠くで太鼓の音が響く。

雨の日の帰り道、濡れたアスファルトが街灯をぼんやりと反射している。

病室の白い天井、消毒液の匂い、握った手の温もり。

そして——事故の夜。

雨粒がフロントガラスを叩き、街灯が滲む。

少年は泣きながら、少女に言った。

「必ず戻ってくるから!」

その声が、ユウの奥底に眠っていた何かを呼び覚ます。


「すみません……中断します」

ユウは装置に手を伸ばす。

だがミナは首を振った。

「この記憶がある限り、私は前に進めないんです」

その瞳は、まっすぐユウを射抜いていた。


抽出を続けるうちに、ユウは確信する。

この少年は、自分だ。

忘れたはずの弟との日々が、鮮やかに蘇る。

胸の奥が熱くなり、視界が滲む。


涙が頬を伝った瞬間、ミナが小さく微笑んだ。

「やっと、帰ってきたね……お兄ちゃん」


その一言で、全てが繋がった。

事故の後、ユウは記憶を失い、感情を封じ込める訓練を受け、この仕事に就いた。

ミナはそれを知っていて、あえて依頼人として現れたのだ。

弟の記憶を売るという名目で、兄を取り戻すために。


ユウは嗚咽をこらえ、装置の電源を落とした。

もう、記憶を売る仕事はできない。

二人は、失われた弟の話をしながら、夜の街を歩き出した。

雨上がりの路地は、アスファルトがまだ湿っていて、街灯の光を柔らかく返していた。

その光の中で、ミナの横顔は泣き笑いのように揺れていた。


——その歩みが、彼にとっての本当の帰還だった。

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