第4話 伊賀者をこのまま放ってはおけん
(はい。仕留めました)
衣茅の表情に安堵が漏れる。
(よくやった。これで我らの郷は安泰じゃ)
(お褒めいただき恐悦至極)
二匹の虫が成功を喜び伝え合う。
蟋蟀の声が急かす。
(さ、往け! 伴の者が来る)
(畏まりました)
衣茅は血飛沫を浴びた体のまま跳び上がり鴨居にぶら下がった。体を一回転させて天井の板を打ち破った。そして屋根裏に潜り込んだ。そこに細い竹筒が一本だけ置いてあった。
(西の湖を経て近江之湖へ抜けます)
(ならば、活津彦根神社に船を用意しておこう)
(有り難きこと)
衣茅は屋根をつたい石垣からお壕に下り、竹筒を咥えたまま体を水面下に沈めた。活津彦根神社までは城下の水路を経て十二町(約1.3km)はある。鍛えた忍者でもたどり着くには容易なことではない。
しかし過酷な鍛錬を受けてきた衣茅にとって、それは何ほどのものでもない。一度も水面に姿を見せず水遁の術を使って泳ぎ切った。
衣茅が小太郎の用意した小舟に乗ったその頃、城では信長の骸を前に怪しい影が二人話し込んでいた。
「おぬしの申したとおりであったな」
織田信長の次男、織田信雄である。いまは北畠具房の養子となり北畠信雄と名乗っている。
「この手のことは伊賀者の考えそうなことでござります」
信雄の傍らにいるのは岩根三郎。甲賀忍者を代表する甲賀五十三家の筆頭格。腕の立つ忍者である。
「このこと、お父上には内緒であるぞ」
信長はいま京の妙覚寺にいる。そこで茶会を開いていた。これに先んじて信雄と三郎は近江の居城で信長主催の宴が内々に開かれることを触れ込んだ。無論偽計である。しかし安土城内での宴となれば疑う者はいない。
これに小太郎と衣茅は嵌った。
三郎は言った。
「承知仕りました。申し上げませぬ」
畏って言うが、自分が信長に会うことなどまずない。三郎の父は杉谷善住坊。信長暗殺を企てた甲賀忍者である。火縄銃の名手であった善住坊は信長を近江の千種街道で狙撃した。かすり傷こそ負わせたが、暗殺は失敗に終わり、捕まった善住坊は土中に首から下を埋められ、竹のこぎりで生首を切断される残忍極まりない拷問に処されている。よって三郎は杉谷の姓を捨て名乗れない。
信雄が呟く。
「されど、伊賀者をこのまま放うてはおけぬな」
「御意」
三郎は伏せたまま信長の身代わりとなった影武者の骸を暫し眺めた。