重すぎた令嬢は、軽すぎた真実の愛の終点を見届ける
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王宮の大広間は、金と宝石で飾られた華やかな装飾に満ち、貴族たちの笑い声と音楽が交錯していた。
その夜は、王太子・アレクトと公爵令嬢クラリスの“婚約披露の舞踏会”――のはずだった。
けれどクラリスは、会場の隅で静かに立っていた。
用意された白銀のドレスは誰の目にも見惚れる美しさで、控えめなクラリスの気品を引き立てていたが、その瞳だけは冷えていた。笑顔はなかった。
どこか、不安を押し殺すような、そんな硬さがあった。
彼女がその異変を感じ取ったのは、ほんの数日前。
いつも誠実だったはずのアレクトが、急に書簡を返さなくなり、謁見の約束も一方的に反故にされた。
「なにかあったのかしら」と思う間もなく、その夜が来た。
そして――。
「ここにお集まりの貴族の皆々様。王太子として、一つ重大な発表がある」
突如、壇上に立ったアレクトの声が会場に響いた。
その傍らには、見慣れぬ少女が立っていた。栗色の巻き髪、質素なドレス――平民だと一目でわかる。
「私は……この令嬢、リナ・エヴァンス嬢と、婚約することを決めた」
ざわめきが走る。いや、それはまだ序章にすぎなかった。
「よって、クラリス=エルグレイン公爵令嬢との婚約は、今この場をもって破棄する。……クラリス、君には感謝しているが、僕は真実の愛に目覚めてしまったんだ」
その瞬間、時間が止まったようだった。
クラリスは、その言葉が意味するものを理解できなかった。
耳の奥がじんじんと熱く、足元が崩れていく感覚。
けれど、笑う者はいた。
王太子の横で微笑む少女リナ。周囲の若い貴族令嬢たちの嘲笑。王妃の冷ややかな視線。そして――王の無言の黙認。
「……理由を、うかがっても?」
喉が焼けつくように痛かった。けれどクラリスは、唇を震わせながら問いかけた。
「理由? そうだな。君は……立派すぎた。完璧すぎた。僕は、もっと自然で、無垢な愛が欲しかったんだ。リナは僕を人として見てくれる」
“君は僕にとって重荷だった”――そう言われたに等しかった。
周囲の空気は凍りついていたが、誰一人として王太子を止めようとはしなかった。
エルグレイン公爵家は敵の多い家系だ。
沈黙は、すなわち加担。
「……ご意志、承知いたしました」
クラリスは頭を下げた。
声は震えていなかった。涙もこぼさなかった。
けれど――その胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちていった。
舞踏会はそのまま続行された。
王太子と“新たな婚約者”である平民の少女リナが主役として、祝福の声に囲まれて――まるで最初からそれが本来の筋書きだったかのように。
クラリスはその場を静かに辞し、自分の足で歩き出した。
誰も引き留めなかった。
いや、それどころか、道をあけたのは侍女ではなく、侮蔑の眼差しだった。
「完璧なだけの女が、愛されると思ってたのかしらね」
「所詮は人形。人の心を知らない冷たい女」
「お似合いだったのに。王太子の玩具として」
陰口は背中に突き刺さる剣だった。
それでもクラリスは背筋を伸ばし、一歩一歩、まるで壊れかけの舞台を演じる役者のように歩いていた。
脚が震えていた。けれど、転ぶことだけは許せなかった。
その夜、クラリスは父の執務室へと呼び出された。
扉を開けると、父――エルグレイン公爵の表情は、怒りでも悲しみでもなかった。
まるで、敗北を受け入れた将軍のような顔だった。
「……クラリス」
「はい」
「荷をまとめなさい。今夜のうちに、北の辺境領へ向かってもらう。あそこなら追手も来まい」
その言葉に、ようやくクラリスの理性が崩れた。
「……私は、家にいられないのですか?」
「我が家はもう、王家に逆らえない。これ以上関われば、一族ごと潰される。お前を守るには――離すしかないんだ」
声は、あくまで冷静だった。
それが、かえって胸を裂いた。
「……承知しました」
その夜のうちに、クラリスは城を発った。
馬車には最低限の荷物と、古ぼけた書物だけ。付き従うのは年老いた従者が一人だけだった。
雪の降る冬の夜だった。
灯のない街道を、ただ黙々と、ひたすら北へ――。
クラリスのなかで何かが死んでいた。
それは“信じる”という感情だったのかもしれない。
馬車の車輪が雪に取られ、何度も揺れた。
暖もない木造の車内で、クラリスは静かに外を見つめていた。凍てつく窓の向こう、吐く息すら白く染まる世界に、彼女の表情は映らなかった。
(私は、なにを間違えたのだろう)
王太子の寵愛を受けるために、努力した。
淑女として、学者として、王妃に相応しい器を育てるために。
父に誇らしく思われたくて、国に尽くしたくて、…それでも“重すぎる”と捨てられた。
その夜、馬車は雪嵐に呑まれた。
従者が馬を御せなくなり、ついに荷車は転倒。
凍りつくような風が、外気を容赦なく吹きつける。クラリスは荷台から投げ出され、雪の中に倒れ込んだ。
「……ああ、こんなところで、終わるのね」
視界が白く霞む。手足の感覚が消えていく。
それでも心だけは、妙に静かだった。
怒りも、悲しみも、すでに凍りついていたからだ。
(次は、誰にも期待しない。誰も信じない)
死が近づいているのを、身体の奥で感じる。
雪に埋もれた意識のなかで、彼女はふと、王太子の笑顔を思い出した。自分を切り捨てた、あの冷たい声と目を。
その時――。
「……馬鹿な。なぜこんなところに女が」
低く、鋭い声が空気を裂いた。
視界の端に、黒いマントが舞う。
誰かが雪を踏みしめて近づき、彼女の身体を抱き上げる感触。ぬくもり。力強い腕。
(ああ……また……誰かに拾われるのか)
クラリスの意識は、そこで途切れた。
それが、運命の転機だった。
そして、この物語の真の始まりでもあった。
意識が戻ったとき、そこは見知らぬ天井だった。
粗い石造りの天井と、重厚な梁。壁際には暖炉があり、火が静かに揺れている。
クラリスはしばらくぼんやりと、その炎を見つめていた。
(生きている……?)
手足に温もりがあった。毛皮の掛け布が厚く、清潔な香りがした。
まるで、誰かが丁寧に手当てをしてくれたようだった。
扉が音もなく開く。
入ってきたのは、長身の男だった。漆黒の髪と冷たい金の瞳――その威圧感に、クラリスの身体が自然とこわばる。
「目が覚めたか。貴様、名は」
その言葉に、クラリスは即座に姿勢を正した。
「クラリス・エルグレイン……前王太子妃候補、でした」
男は眉ひとつ動かさず、無表情で言った。
「お前が“あの”クラリスか。……道理で捨てられるはずだな」
クラリスの心に、またしても冷水が流れる。
だが彼の言葉には、侮蔑ではなく、奇妙な“値踏み”のようなものがあった。
「……私は、どなたに助けられたのでしょうか」
「ゼフィル=ヴァルアーク。北の辺境国『ヴァルアーク王国』の王だ」
その名に、クラリスは思わず目を見開く。
冷酷非道。苛烈な軍政と、数々の戦火を引き起こした“氷王”。隣国では恐れられる暴君。
噂の男が、目の前にいる――。
「なぜ、私などを助けたのですか」
「死なれたら道が塞がる。それだけだ」
そう言って、ゼフィルは椅子に腰を下ろした。火を背にしてもなお、その存在は寒々しい。
けれど彼の言葉の端々から、政治家の鋭さと戦場の空気が滲んでいた。
「だが、貴様が“本物”であれば――拾った甲斐もある」
「……“本物”とは?」
「見極めさせてもらう。お前に価値があるか、利用に値するか。俺は慈善で動く性質じゃない」
冷たく、だが真っ直ぐな瞳だった。
甘さも情もない。
だからこそ、クラリスは少しだけ、呼吸を楽にした。
媚びも同情もなく、対等な眼差し。
それが、今の彼女には救いだった。
クラリスは、ゼフィルの王城で“滞在者”として数日を過ごした。
とはいえ、贅沢なもてなしは一切ない。与えられたのは、薪暖房と簡素な寝具、書物と質素な食事、そしてひとつの机だけ。
けれど、それが彼女には心地よかった。
誰かの顔色を窺う必要も、笑顔を貼りつける必要もない。
クラリスは黙々と、渡された書類に目を通し、王国の政治資料を読み漁った。
――これは、試されているのだ。
「ほう……“納税制度の再構築案”とはな。お前、これを一晩でまとめたのか?」
ある日、ゼフィルが唸るように言った。
クラリスは一礼した。
「王都の経済は人口比に対して流通税が過剰で、貴族階級の消費が機能不全になっていました。ですが辺境領の負担軽減が主眼とされていたので……」
「……なるほど、悪くない。いや、“使える”な」
彼は嘲るでもなく、素直に評価を口にした。
クラリスの胸に、微かな熱が灯る。
それは“認められる”という感覚だった。
祖国では得られなかった評価。
完璧すぎると重荷にされ、冷たすぎると怖がられた彼女にとって――自分の知性や判断力が正当に価値として扱われることは、何よりも救いだった。
「お前を、この国の顧問として迎えよう」
「……よろしいのですか。私の素性をご存じで?」
「知っている。だからこそ価値がある」
ゼフィルの声には、わずかに笑みが混じっていた。
それは冷笑ではなく、戦場で仲間を得た者の目だった。
「国に捨てられた才女、そして貴族社会を知り尽くした女。……今の俺に足りないものを、持っている」
クラリスは、初めてはっきりと返事をした。
「……お受けします。私に“仕事”があるなら、全力で応えます」
その声にはもう、過去を引きずる弱さはなかった。
(私にはもう、期待もしないし、夢も見ない。でも……この手で、世界を動かすことはできる)
クラリスはゼフィルの王国で顧問としての仕事を始めることになった。
初めて与えられたのは、国の財政再建案だった。多くの困難が待ち受けていると知っていながらも、クラリスは決してひるまなかった。
戦争で荒れ果てた国土、破綻寸前の財政、腐敗した貴族たち――これらを一つ一つ乗り越えるために、彼女は再び知識を振るい、計画を練り直した。
ゼフィルはその姿を冷徹に見守っていた。
最初の数ヶ月、クラリスが直面したのは、ゼフィルが与えた「試練」だった。計画を立てる度に、彼の目が厳しく、鋭くなる。だが、クラリスはその度にその試練を越えていった。
やがて、ゼフィルは彼女に向かって、こう言った。
「お前、予想以上にやるな」
その言葉が、何よりも嬉しかった。
ゼフィルは無言でその後も彼女を重用し、ついには“王国の最高顧問”として、クラリスは王国の指導層と同等の地位を得ることになった。
しかし、それでも彼女の心には一つの疑念が残り続けていた。ゼフィルの冷徹さが、ただの策略なのではないかという疑念だ。
ある晩、クラリスはゼフィルに問いかけた。
「王は、なぜ私をここまで重用してくれるのですか?」
ゼフィルは一瞬だけ、言葉を飲み込んだ。
「お前のことを知っているからだ」
その答えは短いものだったが、クラリスの心に深く刻まれた。
それからしばらくして、ゼフィルの王国で大きな問題が起きる。隣国との国境で小規模な戦争が勃発し、王国は危機的な状況に陥った。
ゼフィルは即座に軍を動かし、戦の準備を始めた。クラリスはその戦略に携わることを求められ、冷静に戦況を分析し続けた。
ゼフィルの目は真剣だった。
「この戦争が終われば、隣国の領土を手に入れ、国をさらに強くすることができる。だが、無駄な血を流すわけにはいかない。お前の力を貸してほしい」
クラリスは何も言わずに、ゼフィルを見つめた。そこには、彼の冷徹さの裏に隠れた切実さが見えた。
「私は、あなたの言葉に応えるつもりです」
彼女の答えに、ゼフィルは少しだけ微笑んだ。
その微笑みに、クラリスは何かを感じ取った。
ゼフィル=ヴァルアーク――悪名高き隣国の王。
だが、彼にとって“悪”は、ただの表面的なものに過ぎなかったのかもしれない。彼の中にある本当の“目的”を、クラリスはこれから理解しなければならない。
――そして、彼女は自らの過去を捨て、真の力を手に入れるための戦いを、彼と共に歩み始めることになる。
それは、まるで水面に走ったひと筋の亀裂のようだった。
祖国・エルミナ王国――クラリスがかつて王太子妃として迎えられるはずだったその国が、突如として揺らぎ始めたのは。
「王太子が……? 政務放棄? なぜ?」
ヴァルアーク王国の使節団が持ち帰った極秘情報に、クラリスは目を細めた。
「リナとかいう平民の女が、王宮から姿を消したようです」
側近が静かに告げる。情報源は間違いない。
――まさか、とは思った。
だが、そのまさかが現実になるのが、王族という存在だった。
婚約破棄をし、国の有能な貴族を切り捨ててまで選んだ“真実の愛”。
だがリナは王族の財と権力を吸い尽くしたのち、密かに国外逃亡。
しかもその背後には、他国――エルミナと対立する連邦国家があったという情報まである。
「まさか、リナが……スパイ……?」
クラリスは震える指先で書状を握りつぶした。
だが、もはや驚きよりも、冷めた怒りが彼女を満たしていた。
(忠告など、いくらでもできた。けれど、彼は“私の言葉”を最初から信じなかった)
王太子アレクトは、現在公務放棄状態。
しかも、政敵たちがその隙を突き、王国の議会は混乱。
各地の貴族が王家に不信感を抱き始め、離反を検討し始めているという。
その情報のすべてを、ゼフィルに報告した夜。
彼は短く、酷薄に言い放った。
「……勝機だな」
「まさか、攻めるおつもりですか?」
クラリスの声は驚きと憤りが混ざっていた。
けれどゼフィルは冷たく笑う。
「お前の仇だろう? 俺が動けば、王国は崩れる。だから、お前が命じろ。――“復讐”を、始めろ」
その言葉は、クラリスの中の何かを明確にした。
逃げ続けていた感情、閉じ込めていた憎しみ。
それは決して、泣き叫ぶような弱い怒りではない。
彼女の怒りは――冷えた氷の刃のように、静かに、正確に向かうべき場所を選んでいた。
「……ええ。今こそ、“正しさ”を思い知らせる時です」
王国が築いた虚偽の愛も、欺瞞の正義も、すべて粉々にしてやる。
あの夜、雪の中で死にかけた少女は、もうどこにもいない。
クラリスが動いたのは、エルミナ王国と隣国連邦との緊張が限界に達した頃だった。
彼女がまとめたのは、たった七枚の文書。
そのすべてに、具体的な証拠と取引記録、裏切りの連絡文、そして――
“王太子アレクトと、スパイとされるリナの関係性”に関する詳細な報告書が添えられていた。
「まさか……これほどまでに綿密だったとは」
その報告書を見たゼフィルが、わずかに目を見開いた。
「リナが連邦の特使と接触していた記録。資金の流れ。そして、王太子の口座がそこに繋がっていた証拠です」
クラリスは淡々と述べた。
「これを――国際会議に提出しましょう」
ヴァルアーク王国が主催する、多国間同盟評議会。
各国の王族・大使・宰相が一堂に会する外交の場に、エルミナ王国の腐敗を晒し上げるという決断。
それは宣戦布告に等しい行為だった。
「……恐れはないのか?」
ゼフィルが静かに問う。
クラリスは一拍おき、口元だけを笑った。
「恐れるのは向こうです。彼らは、自分の行いが“見られる”ことを何より嫌いますから」
会議当日。
各国の注目が集まる中、クラリスはヴァルアーク王国代表として演壇に立った。
その姿は、王宮で婚約を破棄され、冷笑に晒された“令嬢”とはまるで違う。
王妃のような威厳と、刃のような冷静さをまとい、彼女は言った。
「ここに、ひとつの真実を告げます。かつて王太子アレクト殿下が“真実の愛”として迎え入れたリナ・エヴァンス――その正体は、隣国連邦の諜報員です」
ざわめきが爆発する。
各国の使節が一斉に資料に目を通し、驚愕と怒りの声が上がる。
「この情報は確かなものか!?」「まさか王族がスパイに資金を!?」
クラリスはただ、凛とした声で告げる。
「私は、捨てられた“無価値な女”と称されました。しかし、真実の価値とは、誰かを装う愛ではなく――未来を守る意志です」
静寂が訪れた。
そして、その場にいたゼフィルが口を開いた。
「我が国はこの件を受け、王太子アレクトを正式に国際指名手配とする」
世界が変わる音がした。
クラリスの報告とゼフィルの宣言によって、国際会議は大混乱に陥った。
エルミナ王国代表は顔面蒼白になり、なんとか場を取り繕おうとしたが、すでにすべての証拠は各国の手元にある。
国王の名で提出された正式抗弁書は、なんの力も持たなかった。
“アレクト王太子は、国家の信頼を裏切り、他国の工作員を私的に招き入れた重罪人である”
その事実だけが、冷徹に突きつけられた。
そして数日後。
クラリスの報告を受け、エルミナ王国国内でも混乱が巻き起こる。
議会では王家の責任を問う声が噴出し、貴族たちは次々と王太子派から離反。
さらに決定的だったのは――
「……王太子が、国庫の金を私的に流用していたことが判明しました」
新たな証拠が暴かれた瞬間、王家の信頼は地に堕ちた。
王は王太子を擁護しきれず、ついに勅命を下した。
【王太子アレクトの爵位剥奪および幽閉処分】
リナ・エヴァンスはすでに国外逃亡しており、行方は杳として知れない。
ただ、後に他国の貴族の妾として暮らしている姿が密かに確認されることとなる。
“真実の愛”とやらの末路は、あまりにも浅ましく、哀れだった。
幽閉されたアレクトのもとに、ある日、一通の書状が届く。
それは、黒い封蝋と共に届けられた、冷たい文面だった。
拝啓 アレクト=エルミナ殿下
かつて、あなたは私に「完璧すぎて、重すぎる」と仰いましたね。
では今、あなたが手にしていた“軽やかな真実の愛”とやらは、どれほどの価値を持っていたのでしょう。
お体にはくれぐれもお気をつけて。
石の牢は寒いでしょうから。
敬具 クラリス=エルグレイン
アレクトはその書状を、何度も何度も読み返した。
指が震えていた。目には涙が滲んでいた。
――なぜ、あのとき彼女を捨てたのか。
その答えを探しても、もはや誰も教えてはくれない。
過去は、取り戻せない。
未来も、もうない。
冷たい石の壁に囲まれた部屋で、王太子だった男は、ただ己の愚かさと対峙しながら、生きながらにして朽ちていく運命を背負うのだった。
エルミナ王国の王太子・アレクトは、今やただの囚人だった。
王位継承権は剥奪され、居城の地下にある石造りの独房に幽閉されて久しい。
手紙のやり取りも禁じられ、新聞も入ってこない。食事は一日に一度、冷えた粥と水だけ。
壁には苔が生え、冬には霜柱が立つ。
だが、それ以上に彼を蝕んでいたのは、「孤独」だった。
(なぜだ……どうしてこんなことに……)
“真実の愛”に身を委ねたはずだった。
誰よりも心通わせたと信じていた。
リナは、気取らずに笑い、肩の力を抜かせてくれる存在だった。
――だが、彼女は何の前触れもなく姿を消した。
その後届いた報告では、彼女はすでに他国の大商人の妾として取り入っていたという。
「リナ……君だけは、僕を裏切らないと……!」
拳を壁に打ちつける。爪が割れ、血が滲んでも、痛みは麻痺していた。
もう遅い。
王国は彼を切り捨てた。
王すらも、保身のために息子を“不要物”として処理した。
そして彼の頭から離れないのは――あの冷え切った手紙の文面。
「完璧すぎて、重すぎる」と仰いましたね。
では今、あなたが選んだ“軽やかな愛”の末路は?
あれほど無表情で、言葉を押し殺していた彼女が。
涙一つ見せなかったクラリスが。
あんなにも静かに、そして見下ろすように“突き放してきた”。
(ああ……僕は……一体なにを)
地位も名誉も愛も失い、残ったのは、砕けた自尊心と、壊れた“理想の愛”だけ。
その頃、王都では人々の噂が流れていた。
「アレクト様、どうなったんだろうねぇ」
「ほら、“前の婚約者”だったクラリス様が、いまや隣国で大出世してるらしいじゃない」
「もったいないことしたよねえ、真面目で綺麗な人だったのに」
その声は、アレクトの耳には届かない。
だが、彼は知っていた。
もう、誰も自分を“哀れ”にすら思っていないことを。
クラリスが、すべてを上回る“格”を持ったと、世間が知ってしまったのだ。
自分がかつて“価値がない”と吐き捨てた令嬢に。
世界が、跪こうとしている。
王太子アレクトが沈んでいく一方で、クラリスは確実に世界の表舞台へと登っていた。
ヴァルアーク王国――冷酷王ゼフィルが治める、あの辺境の強国にて。
クラリスはすでに“宰相格の王室顧問”として、その名を各国に知られていた。
「彼女は恐ろしいほど優秀だ」
「無駄がない。情に流されないが、決して冷たいわけではない」
「まさに、王妃として相応しい器だ」
各国の大使や王族がそう囁くようになったのは、彼女がわずか半年で五つの政策改革を成功させたからだ。
しかも、それらはいずれも王国の“民のため”になるものだった。
飢饉への備蓄体制、徴税制度の簡素化、女性の教育支援――その一つひとつが、確かに王国を変えていった。
ゼフィルは、口では何も言わない。
けれど、いつも報告書に目を通し、たまに一言だけ感想をくれる。
「……良い。次も頼む」
そのたった一言が、クラリスには十分だった。
彼女の中で、確かなものが育っていた。
それは、信頼。
そして、かつて誰かに否定された自分の“価値”が、確かにこの世界のどこかで必要とされているという感覚。
ある夜。
クラリスはゼフィルに呼ばれ、政務室を訪れた。
王はいつものように、火を背にして書類をめくっていたが、不意に顔を上げた。
「……エルミナから、密使が来ている」
クラリスは目を伏せた。
「私に、ですか?」
「いや。“助けてほしい”そうだ。王太子が“後悔している”らしい」
数秒の沈黙。
そして、クラリスはゆっくりと笑った。
「覚えてもいませんわ。誰のことだったかしら?」
ゼフィルの口元にも、ほんのわずかに笑みが浮かぶ。
それは、ひどく静かで、けれど強い――断絶の笑み。
もう、過去は追いつけない。
クラリスはもう、手の届かない場所にいる。
かつて彼女を「完璧すぎて重い」と笑った王子の手には、何も残っていなかった。
“哀れな真実の愛”――それは、結局ただの逃避でしかなかったのだ。
クラリスは王太子からの助命嘆願に対して、正式な返答を出さなかった。
ただ一通、ゼフィルに手渡した文書にはこう記されていた。
“慈悲は王の特権。私は王ではありませんので、判断はお任せします”
王太子の処遇は、ヴァルアーク王国の外交方針に基づき決定された。
その結果――
アレクトは王位継承権を完全に剥奪された上、エルミナから追放処分。
その後、彼は保護を求めて各国を彷徨うも、どこからも受け入れを拒否され、最後は鉱山管理局の囚人労働地帯へと送り込まれた。
「“真実の愛”の果てが、こことはな……」
彼の手には、今も“あの手紙”が握られていた。
破け、にじみ、端が焼け焦げているが――文字だけは、奇跡的に残っている。
「お体にはくれぐれもお気をつけて。石の牢は寒いでしょうから」
彼の胸を突き刺すのは、皮肉でも、嘲りでもなかった。
それは、圧倒的な“差”だった。
誰が正しかったのか。
誰が誠実だったのか。
誰が国を、未来を、人々を思っていたのか。
それが、もう万人の目に明らかになっているという残酷な“事実”。
「クラリス……君だけが、君だけが……僕に、忠義を尽くしてくれたのに」
だが、もはや遅い。
その背にあるはずだった信頼も、温もりも、取り戻せない。
後悔は、償いにはならない。
アレクトの物語は、ここで終わった。
かつて“王になるはずだった男”は、今日も鉄の鎖に繋がれ、汚れた石を砕きながら、己の過ちと向き合い続けている。
永遠に。
そして――
ヴァルアーク王国の城では、クラリスが穏やかな紅茶を口にしながら、静かに窓の外を見つめていた。
ゼフィルが後ろから声をかける。
「――すべて終わったぞ」
「いえ、始まったのです。ここからが、“私の人生”ですから」
かつて誰かに壊され、捨てられた少女は、今や世界を動かす女となった。
誇りと力を手にし、誰の影にも縛られない、自分だけの道を歩いている。
そして、これから――
クラリスは“王妃”になる。
ヴァルアーク王国の春は、長く厳しい冬を越えた者にだけ訪れる。
氷雪に閉ざされていた大地がやっと目を覚まし、城下の広場では白い花がほころび始めていた。
その日、王宮では戴冠式の準備が進んでいた。
だが、それは“王の戴冠”ではない。
――“王妃の戴冠”である。
「……どうしてもやるのですか? 私などに、そこまでの役目を?」
クラリスは、まだ信じきれない顔で言った。
ゼフィルは窓辺に立ち、城下を見下ろしていた。
「当然だ。お前はこの国を、俺より知っている。血を流さず勝ち取った最初の“勝利”を、この国にもたらしたのは――お前だ」
クラリスは口をつぐんだ。
心のどこかで、まだ“私は捨てられた女だ”という呪いが残っていたのかもしれない。
だが、ゼフィルは振り返って、静かに言った。
「俺は冷酷な王だ。権力のために兄も殺した。民衆の支持など知ったことはなかった。だが――お前を見て、考えを変えた」
「……私を?」
「お前のような女が隣にいれば、国は変わる。民も、兵も、未来も。だがそれだけじゃない」
ゼフィルは、ほんの少しだけ、目を細めた。
「俺はお前に――生きてほしいと思った」
その言葉は、不器用で、直線的で、
けれどクラリスの心に、深く、確かに届いた。
「……それは、王の戦略ではなく?」
「戦略であれば、こんなに躊躇はしない」
ゼフィルはそう言って、ひざまずいた。
その手には、銀の指輪。
どこまでも質素で、飾り気のない――けれど、王が直々に鍛冶師に作らせた、“ただひとつ”の証だった。
「クラリス・エルグレイン。俺の妃となれ。王の女としてではない。“俺の女”として、生きてくれ」
クラリスは、初めて――涙をこぼした。
それは悔しさでも、痛みでもない。
ようやく、誰かに「ひとりの人間」として必要とされたことへの、安堵の涙だった。
「……はい、喜んで」
戴冠式の朝。
ヴァルアーク王宮には、各国からの使節が集っていた。
かつて“氷の暴君”と呼ばれた王ゼフィルが、ついに正式な王妃を迎える――
しかもその相手が“かつて婚約破棄され、幽閉された王太子を国際舞台で討ち倒した才女”とあって、各国の注目はいやがうえにも高まっていた。
クラリスは、静かに鏡の前で支度を整えていた。
ドレスは深紅。気高さと炎を象徴する色。
その胸元には、かつて王太子妃として用意された白金の宝飾ではなく、ヴァルアーク王家に代々伝わる古代の紋章が輝いている。
「これが、私の……生きた証」
侍女たちが言葉もなく彼女を支度し、最後に一人の老女が、そっと声をかけた。
「貴女様がここまで来られたこと……わたくしども、皆、誇りに思っております」
クラリスは、その言葉に深く礼を返した。
「ありがとう。でも、私はまだ“これから”を歩くのよ」
式典は盛大に始まり、玉座の間に入場したクラリスを、ゼフィルが正面から迎えた。
彼はいつも通り、無表情だった。
だがその目には、確かに微かなぬくもりが宿っていた。
「本当に、来たな」
「逃げても良かった?」
「逃げる者に、王冠は渡さない」
ごく短い、私語。
だが、そのやり取りだけで、ふたりの絆はすべて伝わっていた。
宰相が宣言を下す。
「これより、ヴァルアーク王国はクラリス・エルグレインを正式なる王妃と認める!」
民衆の歓声が、広場を満たす。
花弁が風に舞い、鐘の音が高く響く。
――クラリスは、ようやく“世界に認められた”。
だが、その表情は、どこか静かだった。
凱旋でもなく、勝利の誇りでもなく。
それは、穏やかな安堵。
もう、誰にも振り回されずに“生きていい”と、そう自分に許せた瞬間。
夜になり、式典の余韻が静まり返った王宮のバルコニーで、クラリスはひとり、夜空を見上げていた。
満天の星々が降り注ぐように煌めいている。
冬の国に訪れた春は、ひどく静かで美しかった。
「……ここまで来られるとは、思わなかった」
クラリスは誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
あの夜、雪の中で死にかけていた自分。
王太子に裏切られ、名誉も未来も失った自分。
けれど、失ったぶんだけ、強くなれた。
誇りを持って立ち続けるには、傷だらけでなければならなかった。
背後で、扉が軋む音。
ゼフィルが黙って歩み寄り、彼女の隣に立つ。
「……眠れないのか?」
「眠るのが、もったいなくて」
クラリスはそう言って、小さく微笑んだ。
ゼフィルは星空を見上げながら、静かに告げる。
「俺はずっと、“ひとりでいい”と思っていた。力さえあれば誰も逆らえないと、そう信じてきた」
「それでも……私を選んだのですね」
「お前だけは、俺を見てくれると思った。王でもなく、暴君でもなく、“ただの俺”を」
クラリスは、その言葉を胸に刻むように噛み締めた。
誰にも必要とされなかった日々の果てに――
彼女はついに、「一人の人間として」求められた。
ゼフィルは、そっと手を差し出す。
その大きく無骨な掌を、クラリスはためらわずに取った。
「……この手は冷たいけれど、嘘はつかない」
「冷たい手でも、温もりは伝えられるわ」
そう言って、ふたりは並んで夜空を見上げる。
静かで、穏やかで、確かな未来。
王妃として、政治の舵を取りながら――
ひとりの人間として、ようやく与えられた幸福を育んでいく。
かつて「完璧すぎて重すぎる」と捨てられた令嬢は、
今や、冷酷王のただひとつの“心”として――王国と共に在る。
この愛に、嘘も、逃げ場もない。
ただ、静かで揺るぎない、
真実の幸福だけがそこにあった。
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