29.本来の姿
私にはもう時間がない。
まもなく日が沈み、夜がやってくる。
さっさとここから離れたかったが、皇太子の呼び止める声を無視するわけにもいかず、私は焦る気持ちをぐっと抑えて、一旦その場で止まると、ロイの方へと振り向いた。
するとこちらを不満げに見つめるロイの姿がそこにはあった。
「今日1日付き合ってもらうと言ったはずだよ?まだ1日は終わっていない。どこに行こうとしているのかな?」
笑顔ではあるが、私の行動を責めるようなロイからの視線が痛い。
痛すぎるが、これに負ける訳にはいかない。
「…私には約束があります。そろそろ行かなければ間に合わないんです」
「約束…。そう…。それは皇太子命令よりも優先するべきものなのかな?」
「…」
ロイに負けまいとさらりと嘘を言ってみたが、ロイから〝皇太子命令〟を出されてしまい、何も言えなくなってしまう。
皇太子命令よりも優先されるべきものなど、この帝国内では皇帝命令以外に存在しない。
皇帝との約束なんてもちろん嘘でも言えない為、ここで私は詰んでしまった。
「…ステラ、僕は意地悪を言いたい訳ではないんだ。ただ君にきちんと休んで欲しいだけなんだよ」
黙ってしまった私にロイが困ったように笑っている。
私の不満が伝わっているのだろう。
「…1日とはいつまでですか」
もうロイの命令からは逃れられないと思い、私は窺うようにロイを見た。
「1日は1日だよ。明日の昼頃までかな」
そんな私をロイが優しく見つめる。
明日の昼頃…。
つまりこのままでは、やはりロイと一晩を過ごすことになるのか。
「…わかりました。ですが一つお願いがあります」
「何?」
「ロイ様と私の部屋を別々にしてください」
「何故?」
「婚約もしていない男女が同じ部屋で一晩過ごすことは決して許されないことだからです」
「え?君と僕が?」
淡々とお願いをする私をロイが目を丸くして見つめる。
そして数秒後、状況を理解したロイは珍しく大きな声で笑い出した。
「あははは!そうだね!確かにその通りだよ!」
おかしそうに自身のお腹を抱えているロイの考えなんて言われなくてもわかる。
幼い少女が何を言っているのだ、と思っているのだろう。
20歳の成人男性が、まだ未成年の私くらいの子どもと例え男女であったとしても、同じ部屋で一晩過ごしたところで、世間一般的には何の問題もない。
わかっている。私もそこはわかっているのだ。だが、ここは年頃の女の子のフリをし、部屋を絶対別々にしてもらう。
部屋さえ別々にしてもらえれば、逃走の機会などいくらでもあるはずだ。
「…私は本気で言っております」
「うんうん。そうだね。ステラは立派なレディだからちゃんと考えられるもん…ね…ふふっ」
少し不貞腐れたように頬を膨らませれば、ロイはそんな私を宥めるように優しく撫でた。
最後に堪えきれずに笑い出しているせいで全部台無しだ。
「…それじゃあ、レディの願い通り、僕たちの部屋は別々にしよう」
やっと少しだけ落ち着きを取り戻したロイが天使のような笑みを浮かべる。
こうして私は何とかロイと別々の部屋を勝ち取ることに成功したのだった。
*****
別々の部屋を勝ち取った数分後。
私はロイの部屋の隣に用意された部屋にやってきていた。
ここからは時間勝負だ。
まずは今から必要最低限の荷物をさっさとまとめる。あとはそれを持って堂々とここから出るのだ。
周りのメイドや騎士に声をかけられることもあるだろうが、それは「ちょっとお散歩に」とでも言って誤魔化せばいい。
ここに来るまでに持っていた大きな鞄を持たず、必要最低限の装備で外に出る私の言葉を必ず皆信じるだろう。
ポケットというポケットに現金を詰め込み、小さな手持ちの鞄にわずかな着替えを詰め込んだところで、私は早速移動しようと動き出した。
「…っ!」
しかしそれは突然来てしまった息苦しさによって止められてしまった。
よりによって今このタイミングが来てしまうなんて。
こうなったらここで一旦本来の姿に戻り、19歳の姿でここから出ることにしよう。
今の状況を判断し、計画を変えた私は一旦ここから出ることを諦めた。
「…ぅ、ゴボッ」
いつものように苦しさと共に咳が出始める。
かなり苦しいが、これさえ耐えれば一旦は落ち着くはずだ。
もう1週間も同じことを繰り返しているので大丈夫だ。
「ゴボッ、ガハッ」
止まらない咳の合間に口から血が飛び出す。飛び出した血はこの美しい部屋の美しい模様の描かれたラグに血のシミを作った。
ちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
「ステラ」
「…っ!?」
扉の向こうから私を呼ぶロイの声が聞こえ、思わず目を見開く。
今、このタイミングでロイが私の部屋に来るなんて!
「今日の夕食について話に来たんだ。入るよ?」
「…ま、待って!」
扉を開けようとしたロイを私は大声で叫んで制止する。
すると私のただならぬ空気を悟ったのか、ロイは一旦、扉を開けることをやめてくれた。
「どうしたんだい?ステラ」
「き、着替え中、な、なんです」
扉の向こうで不思議そうにしているロイに私は何とか息を整えて答える。
それからすぐに私の体を見た。
私の体はまだ幼く、19歳の姿ではない。
変化の途中なのだ。これからまだ咳き込むし、吐血もする。
隣の部屋に滞在していたロイになら悟られないだろうが、扉の向こうにいるロイにならこのままでは悟られてしまうだろう。
「…はぁ、はずか、しい、ので、は、早く、どこかに…ぅゔっ」
「ステラ?」
何とかロイを扉から遠ざけようと言葉を発するのだが、苦しさが私を襲い、上手く言葉を続けられない。
扉の向こうからは私を心配するロイの声が聞こえてきた。
「…本当に着替え中?何か隠し事をしていない?大丈夫なの?」
「だ、だい、じょう、ゴボッ!ゴボッ!」
ドバッと今日一番の量の血が私の口から飛び出る。
それはラグだけではなく、私の服にまで散り、ここら一帯に血の匂いを充満させた。
「…ステラ!」
さすがにもう誤魔化せず、慌てた様子でロイがこの部屋の扉を開ける。
「え…リタ…?」
そしてロイは私の姿を見て、目を大きく見開いた。
私の姿がロイの知っている12歳のステラではなく、19歳のステラになっていたからだ。
しかもロイは何故かそんな私を〝リタ〟と呼んだ。
どこをどう見れば、私をリタと見間違えてしまうのか全くわからない。
私は口から血を垂らしながらも、そんなロイを困惑の表情で見つめた。
先ほどまで保護していた子どもの部屋に血塗れの知らない女がおり、その保護していた子どもの姿がない。
今の状況だけ見ると、血塗れの女である私は確実に不審者…いや、保護していた子どもに危害を加えた犯人にしか見えないはずだ。
説明の余地はない。
今すぐ逃げなければ。
逃走ルートを確認する為に、まずは扉の方へと視線を向けたが、そこには当然だが、こちらを見て、呆然と立ち尽くすロイがいた。
扉からの逃走は無理だ。
ならばと私は頭を中で次の逃走ルートを考える。
ここはこのホテルの最上階、4階だ。
ここから地上まで飛び降りることは、自殺行為と同じだが、各部屋には立派なバルコニーがある。
そこに飛び移りながら下を目指すのはどうだろうか。今の私の身体能力ならいけるはずだ。
19歳の姿に戻り切ったので、もうあの苦しさもない。
私は元々用意していた最低限の荷物を握り締めると、ロイに背を向けてバルコニーの方へと走った。
「待て!リタ!」
後ろから私を必死に呼び止めるロイの声が聞こえる。
何故か私を先ほどからリタと呼ぶロイに、疑問を持ちながらも、私はバルコニーの扉に手をかけた。
「待ってくれ!僕はずっと君を!」
後ろからまだロイが必死に何かを言っている。それでも私は振り向くことなく、隣のバルコニーの手すりへと飛び移ると、そのまま斜め下のバルコニーへと飛び降りた。
*****
「はぁ、はぁ」
肩で息をしながら、すっかり暗くなってしまったマルナの街を駆け抜ける。
必死で足を動かしても動かしても行く先には必ず帝国騎士団がおり、逃げ場のない状況に私は焦っていた。
このままでは12歳のステラに危害を加えた容疑で騎士団に捕まり、牢獄行きだ。
最悪当初とは違う原因で死んでしまう可能性もある。
街にはもう逃げ場はない。
ならば次に逃げる場所はルーワの森だ。
あそこまで逃げれば、運が良ければキースに保護してもらえるかもしれない。
そう考えた私は何度も騎士たちに姿を見られながらも、ルーワの森へと逃げ込んだ。
「お、お待ちください!」
それでも騎士たちを振り切りことができず、森の中を駆け抜ける私の後ろからずっと男たちの足音と私を呼び止めるが聞こえてくる。
さすが帝国騎士団だ。
全く撒ける気がしない。森の中へ逃げ込めば、薄暗さや街よりも障害物がたくさんあるので、もしかしたら撒けるかも、とも思っていたが、なかなか実際は難しかった。
も、もう限界かもしれない。
ずっと動かし続けていた足ももう鉛のように重く、一歩一歩を出すことが辛い。
息もどんどん荒くなり、喉も異常に渇いてきた。
視界も心なしかぼんやりとしてきた気がする。
「…ぅ、…あ」
私から小さな声が漏れる。
先ほどまで力強く前へと出ていた一歩がもう出せない。
ふらふらとただ前に進むことしかできない。
ここまで何とか生き残ってきたのにもうダメなのか…。
ついに足が動かなくなり、私はその場で両膝をつく。
「どこにいらっしゃいますか!」
「返事をしてください!」
複数の男の人の声が遠くから聞こえる。
もう見つかるのも時間の問題だろう。
「…」
あれ。
突然、あんなにも聞こえていた男たちの声や足音が消え、この森に静寂が訪れる。
まるで誰もいないかのような静けさに私は違和感を覚えた。
「お、お久しぶりです」
そんな静寂の中、聞き覚えのある皮肉げな声が私の耳へと届く。
こ、この声は…。
声の主を確認しようと、ゆっくりと顔を上げると、そこには暗い緑の肩まである髪をなびかせ、焦茶の瞳で私を見つめるキースの姿があった。
「リタお嬢様…いえ、ニセモノだったリタお嬢様」
キースが苦手だと言っていた笑顔を作り、私に向ける。
キースの不気味な笑顔を見て、私は安堵した。
やっと、キースの元まで辿り着けた、と。