13.副社長
扉を開く音と閉める音が、二階の方から聞こえた。
もうそろそろ藍沢家を出ようかと思っていたところだった。
かすかに欠伸の音が聞こえたような気がした。階段を下りてくる、寝起きの重たげな足音。やや呆れたような表情をひなぎのお父さんが作っていた。
退散するタイミングを失ってしまった、と思う。玄関と階段が繋がっている家のため、今外に出ようとすれば階段を下りてくる彼女にそれが見られてしまう。無駄な抵抗はすべきではない、という判断になった。
リビングへの扉が開く。
少女は眠たげな双眸で、ぼんやりと母親を見る。誰もが魅了されるような純白のロングヘアだけれども、ここにいる全員はそれに見慣れていて……ああいや、樒海は初めて見るかもしれないけれど、誰かが無駄に騒ぐことはなかった。
「……おはよぅ」
「ああ、うん。随分遅いお目覚めね」
「まだ十時にもなってないでしょ……? ふわぁあ、まだまだ寝れるよう」
「そう? べつに私は、このまま二度寝するのを止めやしないけれどね」ちらと周囲を見る。「でも、お友達が来てるのに、いつまでもそんな醜態晒してていいの?」
「おともだち……」
そこでやっと少女の目が周囲に向けられた。寝ぼけまなこを擦り、広がる光景を認識しようとする。
「ぅえ?」
最初、その視界に収まったのは進藤夕だったように思う。その次に笠原燈子、新島樒海ときて、最後に自分を見た。
「ま、まさかね?」
「そのまさかだと思うけど」
「肯定はいらないっ」
ぴしゃりと扉を閉じ、彼女はどたばたと二階へ上がっていく。
「うちの子、かわいいでしょう?」ひなぎのお母さんが自分を見る。
「ええ」頷き返す。「でも、見慣れてますから、彼女の寝起き姿なんて」
「あらぁ」
俺の言葉への反応は夫婦間で正反対で、頬に手を当て喜ばしそうに笑う妻に対し、夫は娘のあられもない姿を知られているのでは、と顔を顰めた。
夕には叩かれ、笠原からは蹴られたけれど、実際のところ間違いは起こしていない。
一ヶ月ほど歌姫を家に泊めていた中で、寝起きの姿なんて飽きるぐらい見た、というだけの些細な報告だった。
「来るなら先に言ってよ!」
やがて、ばっちりおめかしして二階から降りてきた少女は開口一番そう言った。
今をときめく歌姫、藍沢ひなぎは同い年の女の子ではあるけれども、その容姿は往来を歩けば百人中百人が振り返る容姿をしている。
目立つ純白の髪に、透き通った藍色の瞳。端正な顔立ちと、スタイルの身体と、容姿にいたっては欠点をつける余地もないほどの美人さんだ。
中身もかわいらしいけれど、浮世離れした容姿と較べて現実的なかわいらしさと言える。
「来るって伝えていたよ。ご両親に」
「私には!?」
「そりゃ、会うつもりなかったし」
「せっかく来たんだから会おうよ!」
「今会ってるでしょ」
ひさしぶりに会ったけれど、ひなぎのテンションが上がっているせいか随分と騒がしい空間になってしまった。
迷惑にならないようにと、今日のところは藍沢家を後にさせてもらうことにした。
いつでも来てね、ひなぎの両親から歓迎の言葉をもらったけれど、どうだろう。次に来ることになるのはいつになるか。そう遠くはない気もするし、しばらくは来られないかもしれない。行こうと想えばいつでも行ける場所ゆえに、わざわざ理由がなければ行けなくなるのは、少し面白いと思う。
ひなきが着いていくと言って聞かないので、東京観光のメンバーはひとり増え五人になった。
観光、とは言っても目的地まで少々の寄り道ができる程度だ。
思った以上に藍沢家で時間を取られ(もっとも費やした時間分得られるものはあったけれど)、大分時間が押している。
ひなぎがとにかく躍起になっていた。
ここが自らのフィールドである、と言わんばかりに、タクシーから降りると事細かな説明をしてくれた。
ここが渋谷で、自分の行きつけの店がどこにあって、普段どのようにこの街を練り歩いているか、といったように。
みんなはそれをにこにこと聞いていた。自分はともかくほか三人は、東京に不慣れなのもあったし、やる気に満ち満ちたひなぎを見るというのも珍しいことだったろう。
自ら蚊帳の外に移動しながら、少し考える。
自分たち五人組が、首都東京に住まう人々からどのように見られているかだった。
さすがにひなぎは、外を出歩くにあたってウィッグを着けていた。テンションは高いけれど、この程度の人は往来を歩く人々のなかにありふれていて、特別おかしくは見えないだろう。
それに引っ張られる形で、地方組三人も周囲に溶け込めている。おのぼりさんには見られてはいないはずだ。
では、自分はどうだろうか。
先ほどから時々視線を向けられている。
悪意はない。
が、なにか見定めるような視線で、少しだけ背筋が強ばる。
どうだろう。
自信をもって世に出した『柏木飾』という作品を、世界はどう評価してくれるだろうか。
目立たぬように、しかし、見る人の目から見れば魅力的に映るように。
こういう、誰かを試すようなやり方しかできないのは、自分の明確な欠点に思う。今に限った話ではなく、これまでもずっと似たようなやり方をし続けてきた。
誰かを信用するまで時間がかかる人間だから、なのだろう。
「ほんと、めんどくさい人間だ」
独りごちる。
きっとこれからもこういう生き方しかできない。
それを許容できる人だけが自分の傍に寄ってくるならまだ過ごしやすい人生だろうけど、そうはいかないのが本物の人生だろう。適度に鈍感になるしか方法はない。
「……来栖さん?」
釣り針に獲物が引っかかった、と掛けられた言葉で確信した。
振り返る。四〇代半ばくらいの男性だった。ぼさぼさの髪に、丸型の眼鏡。着崩したスーツと、哀愁漂う表情。普通に話しかけられるなら不審者と思ったかもしれない。だが、彼は自分のことを『来栖さん』と呼んだわけで。
「……いや、違うな。申し訳ないっ」
律儀に頭を下げられる。
「どなたと勘違いされたのでしょう」
笑みを作って、深く訊いてみることにした。
すると彼はポケットをまさぐり名刺を取り出す。
「私、こういうものでして」
差し出されたそれを受け取る。
葦原プロダクション
副社長 葦屋 宏斗
質のよい紙に、簡潔にそう書かれてあった。
「もしかして」
「ええ、ご想像の通りです。とても雰囲気が似てらしたものですから」
「そんなに似ていますか? 来栖音葉さんと」
「うーんと、どうでしょう。こうやって話してみると、存外似ていないようにも感じますね」
素直に返されて転けそうになった。すんでのところで踏みとどまる。
「来栖さんよりもあなたの方がどこか気品があります。正直に言えば、パッと見の印象ではあなたのほうが魅力的にも思います」
「そ、そですか」
葦屋という男があまりにもまっすぐ言葉にしてくるため、少したじろいでしまう。今の自分は、あっさり動揺するキャラクターではないだろうと思い、気をしっかりとさせる。
「来栖さんの魅力は、滲み出る努力と言いますか、強がって弱みを見せない姿と言いますか、とにかく気品ではなく、泥臭さのようなものか彼女魅力だったわけです。それは第一印象で伝わるものではなく、付き合いを深めていく中で理解していくものでしょう?」
「それは、ほんとうにそうですね」
「でしょう! 彼女とお仕事をともに出来たことが、僕の人生で一番の栄誉なんです。来栖さんが亡くなって以降、琴線に触れる方とはお会いできていなかったものですが……」
葦屋は、じっと自分の顔を見つめる。
「ぜひとも私にあなたをプロデュースさせていただきたい。きっとあなたならあの藍沢ひなぎとも並び立てる存在になる、そう確信しています」
彼のその言葉や表情に、嘘も偽りも見つからなかった。
どうしたものか。
彼の誘いに乗るつもりはなかった。
しかし、葦屋の提案もとても魅力的なものだ。
第一に、芸能界に身を置いて成功したいなら、基本的にはどこかの芸能事務所に身を置いてマネジメントしてもらった方がよい。物事をしっかりと俯瞰して見られる人間に身を任せるのが、楽で、なおかつ失敗もしづらい。
第二に、葦原プロダクションは所属するタレントこそ少数ながらも、その全員が世間から評価されている実力者である。タレントのマネジメント力、プロデュース力に関しては業界随一といっても過言ではないだろう。
第三に、葦屋という男自身の能力も評価できる点である。葦原プロダクションの創設者兼現在の社長はこの葦屋の父親だが、葦屋は平のプロデューサーから実績を積み副社長にまで昇進している。人を見る目があり、人を導く才能もある。先の会話からも、実績からも、彼の能力の高さが窺える。
芸能界で活躍したいのなら、断る理由もない提案だ。
「申し訳ありませんが、断らせていただきます」
「……だろうと思っていました」
丁寧に断ると、葦屋は肩の力を緩めた。
「一応、理由を聞かせてもらってもよろしいですか?」
「もちろん」ちいさく咳払いする。「自分は、あまりでしゃばるのが得意な人間ではありません。才能があると言っていただけるのはありがたいですが……芸能界は私には不釣り合いでしょう」
「そう、ですか。……答えていただき、ありがとうございます」
葦屋は小さく頭を下げた。
「なにかあれば、いつでも連絡ください。先ほどの名刺にメールや電話番号が書いてありますから」
「いえ、それは不要ですよ」
微笑み返す。
葦屋は面食らったような顔をしていた。
周囲の雑踏が、どこか遠くに感じる。
やはり演技をするのは楽しいな、と思う。
おそらく自分は、生粋の演技馬鹿なのだろう。
まだ一八にもなっていない短い人生だけれど、アイデンティティというものは疾うに見失っている。縛られていたものから解放されて以降、自分が何者でもないことを自覚し続ける日々が続いていた。
名前以外に自己同一性を担保できるものはないのではないか、と思うほどに。
柏木飾という存在は、何者でも無く、何者にでも成れ、何者にも代わる。もちろんそれは他人の自己同一性が介在しないものに限る。どこの誰とも知れない他人に成り代われ、と言われても無理があるという話だ。
ただ、それ以外なら意外とどうにでもなるということが判った。
以前から薄々と感じていたことではある。わざと意識の外に置いて、自らに普通であることを強制していた。それで周囲の人間は『柏木和花と比べて平凡な才能しかない』と評価していたのだから、少し笑える。
榛名が、『世界の見え方が違う』というような評価の仕方をしていたのを思い出す。
そうかもしれない。
きっとそうだろう。
自己理解が深まると同時に、自らの手足も、思考も、すべてを容易くコントロールすることができるようになった。
ほんのつい最近のことだけれど。
自身の能力を概ね把握しきれたことがきっかけになったのだろう。こんな大胆なことをしでかす気が芽生えてしまったのは。
ふと、袖を引かれた。
脇を見ると、にこにこ笑顔のひなぎが俺を見つめていた。
「なにしてるの? ほれほれ、クレープ買ってきたからさ、飾くんもひと口どーぞっ」
そう言って、手に持っていたクレープを俺の口に押し付けてくる。クリームの甘さと、いちごの酸味に少しだけ現実に引き戻される。
ふっと思い出して、葦屋の顔を見た。
彼はぽかんとして、俺とひなぎの顔を交互に見ていた。
「……あっ、話し中だった? ご、ごめ〜ん」
葦屋の存在に気づき、ひなぎは少し恥ずかしそうにした。でもすぐに目を細めて葦屋の顔をじっと見る。
「あ」「えっ?」
二人が気づいたのはほぼ同時だっただろう。
俺と話していた人物が葦屋副社長であり、俺に話しかけてきたのが藍沢ひなぎであるということに。
名刺はポケットにしまって、代わりにスマホを取り出した。
連絡帳を開き、その名前を探す。探す、といっても一番上にあるのだけれど。
タップすると発信音が鳴った。
すぐ近くから呼び出し音が聞こえてくる。それは、葦屋のポケットの中からだった。
葦屋はポケットからスマホを取り出し、液晶に表示された名前を見て固まった。そして恐る恐る俺の顔を見た。
「なにを驚いているのでしょうか、葦屋副社長」
微笑みを表情に湛える。
「──自分に、プロデュースが必要だとお思いで?」
その言葉で、葦屋は顔を真っ青にさせていた。




