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12.藍沢家

 今日の最初の目的地は世田谷区にあった。

 予定通り九時に家を出て、タクシーを呼んだ。車は嫌いだけれど、致し方ない。運転席の後ろに座って、静かに目的地に着くのを待った。

 二〇分少々でその家に着く。

 小さな庭のある、一般的な一軒家。とは言っても東京に土地を持って家を建てられるのだから、世間的には裕福な家庭と言えるだろう。

 表札には『藍沢』と書かれてあった。


「ここって、藍沢さんの……」

「そう」笠原の言葉に頷く。「ひなぎは知らないはずだけど、俺とひなぎが知り合う以前から藍沢さんとは面識があったんだ」


 その言葉に、夕と笠原は心底驚いていた。

 チャイムを鳴らし、少し待つ。女性の声で返事があった。中からぱたぱたという足音が聞こえ、玄関が開けられる。


「あらぁ」黒髪の女性が俺の姿を見るなり、頬に手をやって目を細めた。「ようこそ、柏木くん。ごめんね、うちの子昨日も遅くまで仕事で全然起きる気配ないのよぅ」

「おひさしぶりです。あの、ひなぎは無理に起こさないでいいですよ。会いたい気持ちもありますけど、長居できるほど時間もないですから」


 会うとどうしても長居してしまう、と暗に込めて微笑み返す。

 すると「それもそうね」と女性は呟いて、俺たちを中へ促した。リビングに通されると、そこでは白髪混じりの男性が待ち受けていた。

 俺はみんなにこの二人がひなぎのご両親だと説明する。

 急な訪問を詫び、浮花川からのお土産を渡すと恐縮されてしまった。


「そこまで気にしないでください」丁寧な言葉でひなぎのお父さんは言った。「柏木くんは私たちの恩人なんですから。むしろ、こちらが何か返さなければと思うくらいで」

「いやいや」


 社交辞令的に挨拶を済ませる。

 三人は不思議そうに俺とひなぎの両親を見ていた。


「……あ、あの、すみません。飾がこんな恰好なの、不思議に思わないんですか?」

「ん、ああ」状況を理解したように、ひなぎのお父さんは頷く。「それは、柏木くんと知り合った状況を話せばわかるよ」


 そう言うと、近くの棚から取り出したアルバムを開き、俺たちに見せた。

 そのなかの一枚の写真に自然と視線がいく。それは、とある企業の一支部の集合写真のようであった。少し昔の写真で若干画が粗く、髪型も時代を感じる。写っている人も若々しい、が。


「これが私で、これが主人」淡々と指さしていったその先に、見覚えのある女性の姿があった。「そして、これが来栖音葉さん」

「……つまり、それって」

「来栖さんは私たちと同僚だったの」


 ひなぎのお母さんは困ったような笑みを浮かべた。


「来栖さんは優秀ではあったけど、うちの職場とは相性が悪くて、入って一年ちょっとで辞めちゃった。二十歳になるかそこいらだったと思う。彼女、高卒でうちに来たみたいだから」

「来栖音葉さんとは旧知の仲だったってことですか?」笠原が訊いた。

「いや」ひなぎのお父さんが首を振る。「同僚だった間は、仲が悪かったよ。いじめていたわけでもないけれど、いるべき世界が違かったんだと思う。来栖さんは正しさを常に求めていて、俺たちは仕事が円滑に進むことを望んでいた」


 皺が少しある顔で昔を懐かしむように笑う。


「働き始めるとわかることだけれど、何もかも正しく仕事をするっていうのはかなり難しいことだ。正しくあるべきことはわかっていても、ヒューマンエラーはどうしても発生するし、何もかも丁寧にやるには人員が常に不足している。どこかで妥協して、折り合って、正しくなくとも問題が起こらないように誤魔化し続けるんだ」

「私たちは現実を見ていたし、来栖さんは理想を見ていた。来栖さん、何事もそつなくこなせる人だったから周りとぶつかっちゃって」

「器用貧乏、だけどね」


 突き抜けた特技は母になかった、と俺は訂正を入れた。苦笑いされてしまった。


「あと、接客業とも相性がダメだったんだろうね。その理由は言わないから察してね」


 ひなぎのお母さんは人差し指を口の前に立てる。


「で、来栖さんが退職してからも、特別なことはなかった。職場や仕事と折り合いがつかなくて人が辞めてくのってよくあることだもの。あのとき辞めてった人が名家のお嬢様で、実家と折り合いがつかなくてうちに就職してきたって知ったのも、来栖さんが歌手としてデビューしてからだった」


 そして、ひなぎのお父さんをちらと見た。彼は頷く。


「応援はしていたよ。デビューして境遇も晒されて、それでも弱いところは一切見せずに芸能界で戦っていた。頑張ってほしかったし、なにより、境遇を知って申し訳なかった。彼女はずっと独りで戦っていたんだからね、それならもっとやさしくしてあげられたら、とは思ったよ」


 そこで、小さく息を吐いた。後悔の色が感じ取れた。


「でも、思っただけだ。これから先の人生で直接関わることなんてないと思ってたんだけど、ね」

「ひなぎが……娘が特殊な子だったから。塞ぎ込んで、来栖さんのファンになって、それで彼女ともしかすると連絡がつくかもしれない、と思い立ったのがきっかけで」


 ほら、学校にも連絡網ってあるでしょう、と言われてすぐに理解した。

 ひなぎが塞ぎ込んだとき、来栖音葉と同僚だったときの連絡網があったことを思い出したらしい。ただ、古い記憶だったし、連絡網のデータは紙で共有されていた。とっくに処分されている可能性の方が高い。

 しかし、ダメ元で探してみると、奇跡的にそれが残っていたのだという。


「当時の住所と携帯番号だけ。住所なんて変わってるだろうし、芸能人だから同じ電話番号を使ってる保証もない。意を決して連絡するのも、ダメ元だったのよ」

「それで、繋がったんですか」

「ええ」


 笠原の言葉に、ゆっくりと頷く。


「意外なことに私たちのことはちゃんと覚えておいてくれてね。私たちが結婚したのも来栖さんが辞めてからだったのだけれど『もしかすると、って思ってました』なんて言われちゃって。……ああ、やっぱり、すごい人は人を見る目が鋭いんだなって思ったんだけど」

「そこで、一番目の子供が同い年だったってことも判明して、さらに驚いたんだけどな」


 ひなぎのお父さんが笑いながら言う。

 言わずもがな、一番目の子供というのは俺とひなぎのことだ。

 そこからはとんとん拍子で事が進んだという。直接ひなぎと会ってもらえることになり、その日取りもすんなり決まり、すぐにこの家に来栖音葉がやってきた。

 元々、東京にいる時間の方が多い人間だったから、都合が付きやすかったのだろう。

 そうして、自分のために推しが会いに来るという経験をしたひなぎは、より来栖音葉に傾倒していったのだけど、それは蛇足だ。


「直接娘と会ったあと、来栖さんに言われたの。いざというときは息子を頼れって。私は、お手本になる大人じゃないからって。でも、そのとき柏木くんだって中学生になるぐらいの子だったわけで」

「優秀な子だったという自負はありますけど」

「だからといって、先々の問題を親が子に丸投げするか……とも私は思っちゃってね。だから、『お手本になる大人じゃない』のかって察したけど」


 ひなぎのお母さんはくすりと笑う。


「親として見れば、無責任だなって偉そうに思えるけど、でも私たちだって娘のコンプレックスをどうにもできなくて、他人に丸投げしちゃったわけじゃない。だから、なにも言えなかった。それに、実際は来栖さんなりに自分の子供を思っての行動だってことも後になって気づけたもの」


 視線を向けられる。

 その言葉で、母の意図を理解できてしまった。

 要するに、ひなぎの両親が信頼できる大人だと判断してからこそ、自分とコネを繋げさせたのだろう。

 こういうときに、察しがよいことが自分のデメリットだな、と思う。

 発言をすぐには理解できないことに、コミュニケーションのわびさびがある気がする。

 理解のためのプロセスとして、悩んだり考え込んだり、詳しく聞き返したり、そういった当たり前のものをすっ飛ばして、早々に発言の真意を理解できてしまうのは、ある意味コミュニケーションが下手くそなのだ。


「……何落ち込んでるの」樒海に脇腹を突かれる。ひなぎのお母さんは夕と笠原に向かって、来栖音葉の行動の意図とそのあとの行動を話していた。「だいたいはわかるけどね」

「……もったいないと思ったの」

「うんうん」


 寄り添ってくれる樒海に静かに話す。


「本当は、母やひなぎの両親の思いやりに感動する場面だよね、ここって」

「まあ、そだね」

「普通なら順を追って理解していくことで、じわじわと陰ながらの思いやりに感動していくものだけれど、自分にはそれができないから」

「名捕手だからね」

「どういう例えよ、ははっ」


 いや、意味はわかる。わかったうえで面白い例えだったから笑ってしまった。

 コミュニケーションにおいて、どんなボールが来ても一発でキャッチし的確な返球ができる、みたいな話だろう。

 それは野球であれば大変素晴らしい技術ではあるけれど、ことコミュニケーションに於いては、淡白すぎる。

 人間としては欠陥品とも言える。

 相手のペースに寄り添って、コミュニケーションを繰り返して、相手のことを理解できた喜びを、感動を味わえない。

 社会を動かす歯車としてはこれ以上ないパーツになれるが、人として生きるうえでは落第かもしれない。


「そういう人間だから……」自分も母も、そういう人間だったから。「それを受け入れられる人を見つけて、うれしくなったのかもしれないね」


 それはきっと、藍沢ひなぎという異質な存在を育てるなかでひなぎの両親に身についた意識だろうと思う。

 でも、そのお陰で、ひなぎと知り合えたといっても過言ではない。

 ひなぎ自身は貰った恩になにも返せていないって思っているけれど、実際は物語の裏側でもたくさんのものをもらっている。


「わからないかもしれないけどね、柏木くんは私たちにとっても子供みたいなものなの」


 ひなぎのお母さんは言う。


「こうやって実際に会ったことはほとんどなかった。来栖さんに言われてすぐ電話して、時々色々と相談に乗ってもらって……娘のことも助けてもらったけど、直接会ったことなんて片手で数えられるくらい。今の柏木くんの恰好には、少しだけ驚いたけど」


 でもお似合いよ、と微笑まれる。


「そのひなぎだって柏木くんのこと大好きだし、もうね、ほんとにたくさんのものをもらっているの」


 その言葉が飛び出すことは、想像できていた。

 特に動揺もない。似たようなことを彼女の娘からも直接言われている。


「だから柏木くんがどんな恰好で、どんな行動をして、どんな結果になろうとも関係ないの。たとえ血が繋がってなくとも、最終的にひなぎと結婚せずとも、柏木くんは私たちにとっては大切な子に変わりないもの。それって、とても素敵なことだと思う」


 当たり前のことを言うように、ひなぎのお母さんは言う。

 隣で主人が呆れるように肩をすくめる。

 認められたような気持ちだった。


 以前から、信用されていたとは思う。

 でなければ、ひとり娘を同い年の男子が住まう家に泊まらせようなんて思わない。起こった結果から、容易く導き出せるものではあった。


 でも、直接言葉をぶつけられて、それでようやく意味を持つものがあるのだと思う。

 だからこうも、胸に響く。心に響く。

 言われることも予想できていた言葉ではある。でも実際のところそんなことはあまり関係なく、響くものは響くし、想いの強い言葉なら、誰かの耳に届くまでに劣化しない。

 泣くつもりはなかったから、泣かなかったけれど。せっかくした化粧も崩れてしまうし。


「泣けばいいのに」

「言うな」


 こういうときに弱みを見せたくないからこそ、先々の展開を読んでいるのだ。泣いてしまえば意味がない。

 ただ、どうだろう。ひなぎの両親の言葉は夕や笠原にちゃんと響いただろうか。現状を打破しようとするきっかけになっただろうか。

 表情を窺うも、わからない。

 静かに話を聞いていた二人は、柏木飾の過去について整理するので精一杯のように、自分には見えた。


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