10.夕と樒海
「ちょっと」
会話が弾まなくなり、飾が眠ってしまったところで立ち上がった樒海に進藤夕は手招きされた。
ついてこい、ということらしい。
抵抗できる理由も特になく、そのまま部屋を出ていった樒海の後を夕は追った。
樒海はリビングの電気をつけて、お湯を沸かし始める。今日この家に初めて来たというのに、慣れるのが早い。物の配置もある程度把握していたらしく、そのままコーヒーを淹れて夕に差し出す。
「……どうも」
「いえ」
樒海はマグを両手で持つと、揺れるそれに視線を落としていた。
「私は他人だからずかずか言うけど、あまり先生をいじめるんじゃないよ」
「俺がいじめてたわけじゃないだろ」
「まあ、百人がさっきの様子を見たら、九九人は先生がきみをいじめてたと思うだろうね。でもひとりは……私は逆に思っちゃうんだ。それはまあ、先生の人間性を理解しているからなんだけど」
夕は、樒海の言葉につっこみたかった。
他人のプライベートに踏み込んできたのは飾の方だと夕は思う。プライベートに踏み込んで、不機嫌な態度をされてしょぼくれて、それは自業自得と言うほかないのではないだろうか。
とはいえ、夕自身先ほどの自分の態度には後悔していた。
あからさまに不機嫌が素振りを見せるのは、不本意ではあった。
かといって、ならなにを言うべきだったのかわからなかった。
「じゃあ訊くけど」樒海は静かな声で言う。「今回の旅行の目的は? ゆーはなんのために東京まで来ることになったの?」
「ん、それは」
そこで、言葉が途切れる。
今回の旅は『柏木飾』を知ることが目的だった、はずだ。
はずなのに。
「いやね、わかるのよ。プライベートに踏み込んでこられるのは怖いよ。そこでしっぺ返し喰らうのも、人付き合いするなかではよぅあることなのよぅ。でもさ、よくよく考えてみんさいよ。あの柏木飾が、自分のプライベートに踏み込んできてくれるなんて、どれだけ価値のあることかをね」
「……樒海は飾のことを神様みたいに思ってないか?」
「そうだけど?」
なにを当たり前のことを、とでも言わんばかりに樒海は首を傾げた。
夕は間違ったことを訊いてしまったと思った。少しだけ樒海が怖かった。
でも、樒海が言いたいこともなんとなく理解した。
「つっぱねんの、やめた方がいいんだよ。きみの思うほど、柏木飾は打たれ強くないんだ」
「それを言うなら俺だって」
「傷ついた?」
「いや……でも」
傷ついたわけではない。ただ少し不快だっただけだ。痛いところを突かれて、バランスを崩されたことに対する不快感を正直に示しただけだった。
「私は、私が転校してから先生の周囲に何があったか知らない。でもね、わかるんだよ。先生の報われなさは。きみだって知ったはずだよね。当人は肩の荷が下りてすっきり……なんて顔して平気なふりをしているけれど、あれはまだまだ抱えているものがたくさんあるね」
「……それで、それを知って何になる」
「あのね、『知りたい』って言ったんだから、その言葉の責任はちゃんと取ろうよ。良い友人ぶったって、現実も受け止められないようじゃ友人失格なわけ」
樒海にそう言われて、自分の返答が間違っていたことに夕は気づいた。
「今日はたぶんずっと先生からずっとストレス与えられてきたんだろうけどね、それは先生が背負ってきたもんの十分の一にも満たないんだよ。これに耐えられないようじゃ話になんないね」
「……」
そこで夕は、今日ずっと自分の調子を飾に崩されていたことに気づいた。
どうしてそんなことになったか、その原因が自分の発した言葉にあることは明白だった。
もしかすると、燈子がすぐにダウンしてしまったのも、移動の疲れだけではなかったのかもしれない。意識していなかっただけで自分たちは大きなストレスに曝されていた。
コーヒーをひと口飲む。
酸味も苦みも、身体の奥まで染み渡っていく。
ずっと飾の味方でいられる自負があった。
飾が他人を遠ざけていたとき、一番に友人の座についたのは自分で、飾のことを理解できている自信もあった。
でもそれは驕りだった。
「向き合わなきゃ」樒海が言う。「自分自身の心にも、先生にも」
飾に言われた言葉を、夕は今更深刻に考える。
……『依存』か。
釣り合いが取れていることに依存していると飾は言った。なんの釣り合いが取れていたか、それは自分を取り巻く関係性というものだったのだと夕は再確認する。
間違いなく、これまでの自分たちはバランスがよく取れていた。
それは夕と燈子の関係に限った話ではなく、飾や茜、新しく知り合った藍沢ひなぎに、飾と血が繋がっている和花や榛名を含めた全員が、である。
しかし、少し考えを改めると、自分を取り巻いていた関係に新たな見方が生まれてしまう。
バランスが取れていた?
ほんとうに?
「……違う」
首を振る。
ある想定をした。
この関係性の中から飾ひとりを抜いたらどうなるか、だ。
たったそれだけで、いとも容易くバランスは崩れ、元に戻せなくなった。
試しに夕は、飾を関係性の輪の中に戻して、自分や燈子をそれぞれ抜いてみる。
すると、今とは関係性が違うけれど、良好な関係性を築けている。それは飾を通じて知り合った人を抜いて試してみても同じだった。
あくまでこれは、自分の想像だ。平凡な脳みその自分の想像だから正しくないとも思えるし、こんな自分でも簡単に想像できてしまうものだとも夕は考える。
わかりきったことではあった。
このまとまりが、結束が、飾によってもたらされたものであることは。
「私が先生を『先生』って言う意味、わかったでしょう? 先生の人を見る目はホンモノで、人をコントロールする力もホンモノなの。みんなは、知らずのうちにその恩恵を与ってる……って、もしかしたらこのくだり、前もあったかもしれないけど」
樒海は少し笑って、それが先生の核たる部分だからしょうがないよね、と言う。
「人はそれぞれ支え合いながら生きていると云うけれど、誰がどの程度の負担を抱えているかは考慮に入ってないよね」
それは、まったくもってそうだった。
「先生は、自分を殺しすぎた」
樒海は飲み終わったコーヒーのマグを音を立てて置いた。
「ありゃ、一回パンクしてると思う」
あまりに鋭い視点に、夕は樒海の顔を見つめてしまった。「当たり、か」樒海が、ゆっくりと言う。
「ちゃんと自分と向き合えるのって、先生からすれば恵まれたことだと思うよ。それを促すののなにが悪い。きっと笠原燈子の意思だって汲んだうえでの行動だよ」
ひとつ、抜けていたものを夕は思い出す。
自分と飾に向き合うことのほかに、まだ向き合うべきものがあった。
「進藤夕、きみは柏木飾がわざと調和を乱す行動をした意味を考えるべきだ」樒海は、心の距離をとるように冷たく言う。「私情かもしれない。周囲から急かされるのは、きみにとっては不本意かもしれない。不安に思う気持ちも、わかるよ」
「……」
「でも、人間関係なんて、それの積み重ねでしょ。ま、踏み込みすぎて痛い目見るのも同じことではあるんだけどさ」
苦笑いして、樒海は肩を竦めた。
「先生は見えている世界が違うから、しばしば理解の埒外に行っちゃう。でも、無意味なことは絶対にしない。それだけは信じてほしい。おねがい」
そう言って樒海は目を閉じると、ゆっくりと頭を下げた。
ただひたすらに、切実に。
なにが、彼女にここまでさせるのだろう。
柏木飾にそれほどまでの価値があるのは、夕も理解している。
ひと言で語るにはあまりに難解なほど、複雑な魅力が飾にはある。
近寄れば近寄るほど、なにもわからなくなる。
ほんとうの柏木飾は、いったいどこにいるのだろうか。
そして、気づく。
ああそうか。
自分は。
「……俺は、飾が怖かったのか」
なにもかも見透かす闇が目前に迫っただけで、逃げようと必死になった。
知らず知らずのうちに深淵に近づいていたことに気づかないまま、うっかり深入りしてしまった。それを許容できる器が自分にはなかったことに気づき。
そんな自分を恥ずかしむことしか、今の夕にはできなかった。




