9.不和
騒ぎに気づいてリビングから出てきた三人を傍目に、葉子さんとエレナさんは帰っていった。
嵐が過ぎ去って、その玄関からリビングに戻るまでが束の間の静寂で、リビングに戻るなり質問攻めに遭う。
「あ、あの人って、」珍しく笠原が動揺していた。「エレナ・チャスカ……よね?」
「知ってるの?」
「知ってるもなにも大ファン。往年の洋画見たら必ずといっていいほど映ってる名女優よ……?」
信じられないようなものを見る目で笠原は俺に言った。
いやエレナさんのプロフィールは知っている。
夕も樒海もエレナさん自体は知っているようだった。
「あれだよな。一時期話題になった、大阪に現れる未確認生物。関西弁を使っているからさすがに偽物だと言われてたけど」
数年前に、エレナさんが大阪旅行に行ったときの話だろう。当時大学生だった唯さんも連れて、大阪の街を練り歩いたのだという。
「その認識で概ね合っているのだけれど、人をUMAに例えるのはやめた方がいいよ?」樒海が肩を竦めながら言う。「ちょっとした珍獣ぐらいに思っとき」
「その発言も相当酷いからな?」
二人のやりとりも見守りつつ、笠原に「うん、エレナさんで間違いないよ」と答える。
「ど、どういう関係なの? 私サインもらいたいのだけど」
「どうって言われても」
真実を告げてよいか少し悩む。
が、しかし『驚いてもらいたい』という欲求には逆らえなかった。
「あの人、榛名のお母さんなの」
そう告げると、言葉をすぐには理解できなかったらしく、数秒間の沈黙がリビングに広がる。
「え?」「は?」「嘘でしょ?」
「一気に喋るなって」
三人が喋り始めたのはほぼ同時だった。
肩を竦める。
「かなり似てると思うけど」
榛名も唯さんも日本人顔ではあるけれど、髪色とかは母親からの遺伝だ。
「まだ成長途中だけど、たぶん榛名はエレナさんによく似ると思うよ」
「どういう意味……?」
「言葉通り」
笠原にじとっと見られて、特別何も思っていない風に流す。
榛名は、身長は止まりかけているけれど、身体つきは日を経るごとに女性らしさが増していっている。あまりそういう目で見ないようにしているけれど、向こうからスキンシップがあるとどうしても意識せざるを得ない。
「まあ、だから、エレナさんは俺からしても義理の伯母になる。見た目はおそろしく若いけど、実年齢が親ぐらいの歳だって笠原はわかるでしょ」
「わかるけど、わかるけどっ」
「納得できない?」
「腑に落ちすぎて困ってるのよ!」
パズルのピースが嵌ったような納得が、笠原ほか二人を襲っているらしい。
納得してもらえたなら、まあいいか。
*
唐突な東京行きとなったため、俺ら全員荷物という荷物はなかった。
そして、立派な家ではあるが、父が母と知り合う前に建てた家だ。浮花川の家と違って案内するほどの専門的な設備が入った部屋があるわけでもない。強いて言えば父が絵を描くのに使っていた私室に、イーゼルとキャンバスが残っているくらいだ。
「こうやって話を繰り返していると、柏木くんがどんな人かわからなくなってくるわ……」
笠原が枕に顔を押し付ける。
夕食も済ませていたので、それぞれ風呂に入った後、来客用の部屋に全員の布団を敷いて雑談をしていた。
「そこんとこ、昔の飾はどうだった?」夕が樒海に視線を向ける。
「今より明るく振る舞ってたけど、根底のところはなにも」樒海は微笑みながら言う。「強いて言えば、今の方が自然体には見えるかな」
当たり障りのない話が続く。
自分がなにか、それを同定できる材料を、実は自分自身持ち合わせていなかった。
というか、大抵の人がそうだろう。
自己を俯瞰し、私情を織りまぜず、正当な評価を下す。
言葉にするだけ簡単だが、現実的には不可能なことであることは、言うまでもない。
「笠原は『柏木飾』という存在に対する先入観に囚われすぎじゃない?」
「それ、自分で言う?」笠原は枕の上で顔を少しずらす。
「言うよ、少し恥ずかしいけど。一枚岩じゃないんだよ」
「まるで『柏木飾』という存在自体が組織とか団体とか、個の集団みたいに聞こえるのだけど」
「似たり寄ったりだね」
「ぇ、多重人格」笠原が目を丸くして起き上がる。
「のんのん、そゆわけじゃないよ」
少し大袈裟に否定してみた。
その態度に樒海が静かに頷く。
「うん、そだね。今の素振りとか特に。万華鏡、というには大袈裟だけど、見る日見る時、あるいは話す日話す時に拠って雰囲気が変わる人だから。目には見えないところを感じるようにしないと戸惑うよね」
「そういう風にしか生きれないだけ」
「誰だってそうでしょ。先生は特に内に住まわせている性質が多いだけ。男だし、女だし。普段まじめに見えて結構気ままでお茶目だし」
否定できる要素はなかった。
「それに、周囲の人間に合わせて変容する。だから、『わからない』という感覚もわかった風に思い込んでいるから芽生えたものだし、今私たちの目の前にいる先生も、私たちに合わせて相性のいい姿を見せているだけ」
「相性いいというか、波風立たないようにしているだけだけど」
しかも、それだって自分に限らないどころか、誰しもが無意識下でやっていることだ。
「上司の機嫌を損ねないために、飲み会でよいしょするのと何が違うんだ」
「先生……? 何歳よ、あなた」
「あくまで例えだよ」
「例えの仕方が高校生じゃないんだよ」
樒海が呆れたように小さく息を吐く。
「……これが、柏木飾。わかった?」
「なんとなくは……」
樒海に促され、笠原がぼんやりと頷いた。
急遽の旅行に疲れもあったのだろう。笠原はだいぶ眠そうだった。「明日もいろいろ歩き回るだろうから、早めに寝ていいぞ」と夕がやさしい声音で言う。笠原は言葉にならない返事をするやいなや、寝息を立てて眠ってしまった。
「眠っちゃった」
「夕の言葉に安心したんでしょ」
「それもそうだね」
「……おい」夕が顔を歪める。「こいつとはそういう関係じゃ」
「なら、どうありたいの?」少し踏み込む。「どうなりたいの。人との関係性においては、今がどうかよりもこれからどうしたいかが重要だよ」
俺の言葉に樒海が目を丸くした。
自分の口から出る言葉にしては、少し青い言葉だったかもしれない。
夕は黙り込んだ。腕を組んでから、一度笠原の方を見る。うつ伏せではあったけれど、顔は見えていた。なにかを食むように口を動かしている。髪の毛が口に入らないように、樒海が近寄っていった。
「今の関係が心地いい、ってのはあると思う」
打ち明けるように夕は言った。
「サテライトだね」なんとはなしに言ってみる。
「……衛星ってことか?」夕が首を傾げた。
「釣り合いが取れているということ」
「それなら、無理に関係を変えようとする必要はないんじゃないか」
「本心ならね」
夕を見る。まだ、自分がなにを口走るか予期できていない表情だった。
「問題がないわけじゃない。釣り合いが取れていることに『依存』するのは危険だよ」
「それはわざと悪い響きの言葉を使っているだけだろ。『依存』って、要する『相手を頼ること』を甚だしくしただけだろうに」
会話をしながら、間に挟まれた樒海がかわいそうだと少し思った。しかし、恐る恐る顔を窺うと、本人は楽しそうにニコニコしていた。杞憂だった。
「てか、俺が仮に燈子と付き合いだしたとして、飾にはなんのメリットがあるんだよ。自分で言うのもなんだけど……そのうち勝手にくっつくだろ、俺たち」
「私情だよ」
「そういうのをお節介って言うんじゃないの?」
「お節介に思うんならお節介でいいよ」
肩を竦める。
「……ごめん、忘れて。らしくないこと言った」
なにもかも私情だ。
少しばかり急いでしまっている。
お節介、だろう。
誰しもが自分自身のペースを持っていて、そのペースを乱されるのはストレスになる。
こうやって夕を促してみてわかったのは、意外と夕も、今の関係が壊れてしまうことに恐れを抱いていることだった。
それを知れただけ、今はよいと思うことにしよう。




