8.エレナさん
「ちょっと待ってて」
みんなにそう伝えて、慌てて葉子さんの後を追った。
葉子さんは、荷物をまとめ玄関先まで到着していた。
「送ります」
「結構。間もなくエレナが来ることになっています」
葉子さんは振り向きもせずに言った。どうやら迎えが来るらしい。
実際のところ、ここから葉子さんの家までは徒歩でもそう時間はかからない。この近辺は治安もよく、夜にひとりで歩いても事件は起こりづらい。
でも、万が一ということもある。
迎えを呼んで帰る、という葉子さんの選択が正しいことは明白だった。
ほんとうは家に送りながら、もう少し詳しい話を聞きたかったのだけれど。
「どうしてここに?」
「孫から……榛名のほうから、あなたが東京に来る予定だと伺いまして。それならば掃除でもしておいてやりましょうか、と」
「総代直々にですか」
「わたしの身分とは関係ありませんよ」
来栖の家は代々続く神職の家系で、葉子さんはいわゆる『〇〇神宮』とか『〇〇大社』と言われるものの取りまとめをしている、要するにお偉方である。
「最近はお暇で?」
「概ねのことは息子にやらせても問題がありませんから。こうして考えると、わたしという存在も、なんだかんだ代わりが効くものですね」
葉子さんはゆっくりと息を吐く。
「誰かにとっての特別にはなれても、社会にとっての特別になるのは本当に難しい。それこそ、歴史に残るような活躍でもしないと難しいのではないでしょうか」
「今から発明家にでもなります?」
「残念ながら、わたしにはもう発明家として大成できるほどの時間はありませんよ。すぐすぐ死ぬわけでもありませんけど、もう還暦を過ぎていますし。頭脳の衰えも加味したところで、せいぜい二〇年あるかどうか、でしょうから」
才能がない、とは言わなかった。
生き方を変えていれば、その分野でも活躍できなかったわけではないと、自身の素質を評価しているのだろう。
「そういう意味では、あなたの才能を評価しているのですけど」
「……どういう意味ですか?」
「社会や、あるいは世界を大きく動かせる才能ですよ。あなたは、新興宗教の教祖に向いている気がします」
「そういう評価の仕方はやめてください」
切実にお願いせざるを得なかった。
新興宗教の教祖なんて嫌すぎる。
ましてやそれが一神社の総代からの言葉なのだから、余計に重たい。
「言っときますけど、自分には向いてないですよ。矢面に立って人を扇動するなんて間柄じゃないでしょう?」
「それもそうですね」葉子さんはすぐに引き下がった。「あなたはどちらかといえば、人の深層心理を利用して、世界をコントロールする側の人間ですからね」いや違う、よりタチの悪い存在に下方修正されてしまった。
しかし何も否定できなかった。
実際にそれをやったのが、ついこの前の騒動の裏側なのである。
「暗躍、とかね。そういうの、ほんとに似合っています」
「……榛名からなにか聞きました?」
「いいえ、なにも。ただ、対策も立てずに来栖音葉との関係が出回り始めるとも思えません。人の口には戸は立てられませんけど、自分が納得できる形には持っていったのでしょう?」
「その通りなんですが」
開いた口が塞がらなくなりそうだった。やっぱりこの人は榛名のおばあちゃんだ。正直言って、俺や和
花とはあまり似ていない。
「自分の力を、あまり過信はしていません。人の心や考え、集団のまとまり方や流れを読むのは得意ですけど、だからといって何もかもを都合よく動かせるとは思っていません」
「それはわたしだってそうですよ。この人生ままならないことばかりです」
「はい。だからこそ、考え方を改めました。どんな結果になったとしても、その結果を受け入れられるように最善を尽くすだけです」
自分にできることはなんだってやる。
それだけの話でしかない。
「後悔はしたくありませんから」
「そうですか。ええ、そうですね。でもそれは、後悔したくないのではなくて、何事にも納得できればよいのではありませんか。背負った痛みに対して、当然背負うべきものだったと簡単に自分の本心と折り合えるように」
「まったくもってその通りです」
わかりやすく平易な言葉を使おうとも、この人は真意を見抜いてくれる。幼少期から知り合いであれば多大な影響を受けただろうが、自分と葉子さんが知り合ったのは、来栖音葉が死んでからだ。
そして。
「また難しい話しとるなぁ」
ぶわっといい匂いが漂ったのち、肩を抱かれた。
「飾くん、かわいらしい顔しとるんやから、ずっとかわいいもんの話しときゃええんやって。もったいないで」
「……エレナさん、お久しぶりです」
「おう、おひさしうな。前会うたときはこんぐらいやったのに、人の成長はほんま早いわぁ。あっ、中年おばさんの愚痴な」
「前会ったの、一年とかそこらじゃないですか。そんな豆粒みたいに小さかったわけないですよ」
自分がつれない態度でいると、その女性は肩を抱く腕にさらに力を込めてくる。華やかな金髪が視界の端で揺れている。
葉子さんに呼ばれた女性が、彼女だった。
エレナ・チャスカというのがかつての彼女の名前で、自分が生まれる以前に名を馳せた欧州出身の名女優であったらしい。
それはもう、世界的な人気があったらしく、当時の写真を見せられるたびに戦慄するほどである。
艶のある金髪と、透き通るような肌に紅玉のごとき瞳、グラマラスな身体に抜群の演技力……と、本当に女優として隙のない人だったという。
女優引退後は日本に移住、関西を渡り歩き、そして結婚して東京へ。
日本語は関西弁から学んだらしく、発音自体は完璧なのだけれど、どうにも中途半端な関西弁という感じが拭えない。
だから彼女をひと言で表すなら『隠居中のエセ関西弁外国人』だろう。
ちなみにだけど、唯さんや榛名の母親が彼女だったりする。
「ほんまかわええわぁ。もうね、唯……は結婚してもうたから、榛名と結婚してくれへんかなぁ。かわいい子とかわいい子かけ合わさったら、ごっつかわええ子生まれるんとちゃう?」
「それは……榛名の意思もありますから」
「榛名も満更じゃないと思うんやけどなぁ。それとなく本心聞き出そうとしたらはぐらかされてしもたんよ。なに『わたしと飾さんはそんな関係じゃない』なんて言われてもなぁ。ほならどういう関係やねん、って」
「……」
実母に従兄との関係を詳らかに話すのは、さすがの榛名でも躊躇したのだろう。
余談だが、エレナさんとの付き合いは結構長い。
葉子さんが三年程度なのに対し、エレナさんはすでに知り合ってから一〇年以上経つ。
『あの来栖音葉と縁繋げるんなら、どんなコネ使っても繋いだるわ!』と息巻き、義母である葉子さんを経ずに自らのコネをフルで活用して母に接触したのだという。
唯さんがうちで居候することになったのはそんな経緯もあった。多忙な母の代わりの保護者として、俺たち兄妹を見守るために送り込まれたわけである。
「エレナ、夜なんだから少し静かにしたらどうです」
「んもぅ、いけずやわ。飾くんに会う機会なんて滅多にないんやから、少しぐらいスキンシップとらせてもろてもええやんかぁ」
「気持ちはわかりますけど、自重なさい」
「ぶぅー」
唇を尖らせるエレナさんは、子供がいる女性には見えないいとけなさがあった。
エレナさんがエセ関西弁という設定なのは、作者が関西に馴染みのない人間のためです。




