7.確執と後悔と
柔和な笑みを浮かべ綺麗に頭を下げる彼女に、一同合わせるように頭を下げた。
着物姿に、まっすぐな背筋、年齢相応に皺が出始めているけれど、まだ艶もあり五〇代と言われても不思議ではない容貌。
その上品な佇まいに、将来はこんな人になれたらいいな、と思う反面、この人から母のような人間が産まれてくることを不思議にも思う。
そりゃあ、相性が悪いな、と。
来栖音葉は、そりゃあもう歌手として活動する際は上品さを醸し出していたけれど、プライベートの彼女は上品さとはかけ離れていた。
母の名誉のために詳細の話はしないでおくが、よくも悪くも俗な人間だった、という解釈をしてもらえれば間違いないと思う。
インターネットがあり、よいことも悪いことも、真実も嘘も、何が正しくて何が間違っているか判断する隙もないほど大量に摂取させ続けられる世の中だ。知らず知らずに穢れが蓄積され、清楚……あるいは純粋無垢と言えるような存在から遠ざかっていく。
そして気づく。
穢れのない純粋無垢な存在は幻想でしかなく、実際にそのような人物に出会ったとしても、その相手が不当に『清楚』という幻想を抱かれているにすぎないのだ。
「なにを考えているのですか?」
祖母が首を傾げている。
柏木家別邸のリビングに、ひとまず全員集まっていた。
「いえ、葉子さんも「おばあちゃん」……おばあちゃんも、腹に一物抱えているんだろうと思って」
「わたしは男ではありませんが」
「そういうとこ、そういうとこ」
考えうる限り百点満点の回答が返ってきて、少し呆れてしまった。
還暦を少し過ぎたくらいの年齢であるが、まだまだお若い人だ。こういう姿を母に見せていればもっと打ち解けられていたのだろうが、実の娘の前で少しでも教育に悪い姿は見せたくなかったのだろう。
もしくは、母が毒されやすく、自分は毒されない人間だと理解しているからか。
「改めてをご挨拶を」祖母は正座をして、ゆっくりと一礼する。「来栖葉子と申します。孫がお世話になっております」
「い、いやそんな」夕は逡巡し、言葉を選んで返す。「むしろ、俺たちが世話になっているくらいで」
「おそらくはきっと、この子にとってはそれが重要なことだと思います。この子は月のような子ですから」
その表現に理解を示せたのは樒海だけだった。
「わからなくてもよいことですよ」祖母はやさしく言って、しかし樒海のほうに微笑みかける。「様々なもののバランスが釣り合うことで、わたしたちは互いを支え、互いに支えられている。その黄金比は決して、誰もが他者を知覚的に捉えている必要はない。理解った、理解らないの二極ではないわけなのですよ」
より難しい内容に話が飛躍していく。さすがの樒海も思考が追いつかなくなってきているように見えた。
「学生は学生らしく、無知に自覚的になって生きているのが健全です。わたしは、知らないこと自体を非難することはありませんし、知ろうとしないこと自体を非難することもありません。根底にあるのは、知るべきことに対する向き合い方なのです」
それは、祖母の実体験にまつわる話だと、自分はすぐにわかった。
もっと具体的に言えば、祖母と母の関係に対するものだということを理解した。
「そして、選択がある。知るべきことか、知らなくてよいことか。切り捨てた側が真逆に位置していた、なんてざらにある。わたしにとっては娘との関係がそれでした。そしてもう取り返しがつかない」
すっと樒海が俺を見る。
なにも返す言葉はない。
ただ自分は、血の繋がった他人の後悔を見守っているだけなのだ。
それをどう受け取るかは、彼らの勝手だ。
「だから、釣り合いを保つことが大事なのではないかと思います。仲違いを起こさないことも大事ですが、間違いが起こったときに、それを元に戻そうとする努力が必要、とかそんな話です」
三人は、その言葉でようやく理解ができたようだった。
「気負いすぎる必要はありません。この子とこれまで通り仲良くして、これからも仲良くあり続けようとしてくれたなら、ほかに望むことはなにもありませんから」
葉子さんは音も立たないほどゆっくりと立ち上がる。
「それに、この子にいい友人がいること、それ自体にわたし自身も救われているのです。柏木飾の友人であることを、謙遜する必要はどこにもありません」
葉子さんはそう言うと、俺の頭を撫でた。
少しくすぐったい。でも、とても力強い手だった。
「強いて言えば」茶目っ気のある表情で彼女は笑った。「息子や孫息子ばかりがこっちに残って、目に入れても痛くないかわいい女の子ばかり浮花川にいる今の状況だけは……少々解せないと思っています」
と、俺をさらりと女の子枠に入れながら、葉子さんはリビングを出ていった。




