6.祖母
樒海の友人たちは、各自の最寄り駅に到着するたびに降りていったのだけれど、樒海だけはなぜか最後までついてきた。
新幹線へ乗り換える駅で降車したところで、樒海のその不可解な行動について訊ねようとした。
しかし、返答するのを拒否するかのように、質問しようとしたところで先んじて「何時何分の新幹線? 座席は何両目のどこ?」と、樒海が訊いてきた。
着いてくる気だ、とすぐに察した。
それを拒否できる理由がなかった。ひっそりと訊かれたものだから、連れの二人は樒海が着いてくるつもりになっていることを知らない。電車のプラットホームから離れ、新幹線のところへ移動する隙に一度離れていった樒海を傍目に夕は訊いてくる。
「実際のところ、なんで『先生』って呼ばれてんの? 同い年だろ」
「かなり複合的な理由だから、ひと言ではとても」
樒海は乗り越し精算機のところで支払いを済ませて一度改札を抜けていった。俺たちは立ち止まる。
「昔はインドア系だった樒海が画家であるうちの父親を尊敬していたり、純粋に俺を尊敬していたり」
先生と呼ばれるきっかけの出来事はあった。でもそれは自分が客観で語れるほど大層な出来事ではなかった。よくも悪くも劇的ななにかがあったわけではなく、日々の小さな積み重ねが今の関係に繋がっているだけなのだ。
「樒海との関係は、茜やひなぎに比べれば圧倒的に淡白だよ。言い換えるなら、特別なものが何もない。だから俺と上手く付き合えてたってのはあると思うけど」
笑顔で話すと、夕も笠原も納得したように頷いた。
樒海が転校していってからつい先程まで、直接は会うことはなかった。ただ、自分と関わりのある人になにかが起こったときは、目敏く気づいてメッセージを送ってくれた。まるで、そのくらいの距離感が俺にとってはちょうどいいのだと察しているみたいに。
「『先生』と慕われるのはべつになんとも思ってない。愛称みたいなもんだと思ってる。『先生』と呼べるほど尊敬しているからそう呼んでいるだけで、そこに深い理由はないわけだ」
「うん、そゆこと」いつの間にか戻ってきていた樒海が頷いて言う。「だからいつも困っちゃうんだ。『先生』は『先生』だから『先生』と呼んでいることを、わざわざ言語化するってかなり難しいんね」
戻ってきた樒海を夕は不思議そうに見ていた。
笠原が「見送りに来たの?」と訊く。
「いんや。面白そうだから、一緒に行こうと思って」
「はい?」
「……面白そうだから、って理由で気楽に行けるような場所じゃないと思うのだけれど」
「先生がいるだけで、それだけの価値があると思わない?」
樒海の言葉に二人は黙り込んだ。
今の二人にとってはあまりに説得力ある言葉だったからだ。
柏木飾のことを知るために東京に行く。そうは言っても、二人はサプライズで東京に行くことになったのだから同じ状況ではない。だが、東京行きを承諾したのは、間に柏木飾の存在があったからには違いない。
そのことに、思い上がりはしない。ただ、自分の過小評価もしない。
誰かに大切に思われていることの尊さは、ほかの何物にも代えがたい。だからこそ、みんなの気持ちは粛々と受け止めたうえで、期待に応えられる人間でありたかった。
「お金、出すよ」
「いいの?」
「二人分は俺持ちだから、樒海に出さないのはフェアじゃないかなって」
「ほならありがたく」
樒海は目を閉じて手を合わせてくる。
遠慮がないことに、むしろ好感をもった。
「あとでお返しするね。お金では無理だけど」
「むしろお金で返されてもって感じはある。無欲だから、正直困るぐらい貯蓄があるから」
「羨ましいこって。やだやだ、これだから天才は」
樒海は肩を竦める。
樒海にとっては東京への交通費は痛い出費だが、自分にとっては大したものではない。俺と樒海の間ではお金の価値が等しくないことを、樒海はよく理解している。
そして樒海は貸し借りを重んじているから、躊躇することなく投資ができるわけだった。彼女に貸しを作ることは、長い目で見ればあまりにもリターンが大きい。特別なにかに秀でているわけではないけれど、将来はきっと何かしらで大成しているだろう。
東京への道すがらで樒海をパーティーメンバーに加えたことは、思わぬ収穫だった。
今回の旅は、三年前の自分についてを教えることが主な目的だったけれど、自分のことを語る以上、そこにはどうしても主観が混じってしまう。
しかし樒海は(少し恐ろしいぐらいに)柏木飾という人間を理解していて、自分が上手く言語化できない部分を語ってくれる人物としては最適な存在だった。もしかすると、榛名に匹敵するぐらいである。
そのおかげか、新幹線内ですっかり夕や笠原と打ち解けてしまって、最初に自分が予約した三人席に樒海が座り、自分が樒海の取った席に自分が座るという不思議な状況となった。通路を挟んで向かい側の席だったから特別疎外感は感じなかったけれど、どうしてこうなったのか、と頻りに首を傾げていた。
東京駅に到着したのは、もうすぐ午後七時になるころだった。
地方では考えられないことだが、この時間でも駅が混んでいる。駅構内を回って適当な飲食店に入り、夕飯を食べて、今度は宿泊先の最寄り駅へ向かう電車に乗る。
ひさしぶりに屋外に出た、と実感できた頃には午後九時が迫っていた。
歓楽街であれば、この時間も夜と思えないほどの賑わいがあるのだろうが、住宅街に入れば閑かな雰囲気に圧倒されてしまう。
豪奢な建物が立ち並ぶここ一帯はいわゆる高級住宅街で、初日の最終的な目的地もこの場所にあった。自然と無言になって歩くことしばらく、ようやくその建物が見えてくる。
周りの建物と比べればこじんまりとはしているが、それでも、東京の一等地に建っていることを踏まえても、立派な邸宅がそこにあった。
目線ほどの高さの柵で敷地全体が囲まれていて、プライバシーにおいても一応の対策が取られている。築年数はだいたい二〇年少々といったところだが、管理が行き届いているのか、はたまた使われる頻度が高くなかったのか、築年数ほどの使用感がない。
ここが、東京における来栖音葉の拠点だった。
元々は大学生時代に父が住んでいた家だったらしい。
「結婚するまでここに住んでいて、結婚を機に浮花川に戻ってきたらしい」
門扉を鍵で開けながら言う。
「戻ってきた?」夕が首を捻る。「飾の両親って、実家はどこだっけ」
「両親とも東京だよ。でも、両親とも実家との折り合いが悪かったから、父は高校まで浮花川で暮らしてた。画家として収入があったから、大学進学のタイミングでこの家を建てて……ほんとうは浮花川に戻ってくるつもりなんてなかったんだろうけど」
最期は、死にたい場所で死にたかったのだろうか。
本人が死んでしまった以上、真相はわからない。
「どうぞ」
みんなを中へ促しつつ、念の為廊下に埃が積もっていないかを確認する。来栖音葉の死後、ここへは年に一回は来るようにしているのだけれど、それでは管理が不十分だ。月に一度は人を雇って家の清掃をしてもらっている。
ただ、それは。
「ぁ」
暗い廊下に明かりが差し込んだ。
これまでなにを考えていたか、一瞬考えが飛んだ。
それもすぐに戻ってくる。
帰ってくる。
この家の清掃は、東京にはいない自分を通じて依頼されていない。東京にいる親戚を通して、行われているものだった。
それが誰か。
答えは目前に広がっていた。
「葉子さん、いらっしゃってたんですね」
「『おばあちゃん』と、お呼びなさいと言ったでしょう?」
「……はい、おばあちゃん。こんばんは」
「こんばんは。よくできました」
少し頬が熱くなった。
自分が、誰かを『おばあちゃん』と呼称するキャラクターでないことを自覚しているからだ。
まごついていると、くつくつと愉快そうに笑った白髪混じりの女性は言う。
「ようこそ、みなさん。わたしはこの子の祖母の来栖葉子といいます。今日明日、という話だったけれど、ここにいる間はゆっくりとくつろいでいってくださいね」




