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1.後ろを向く意味

 涙は出なかった。

 とにかく今起こっていることをどうにか処理しなければならないという意識だけが先行し、悲しさとか苦しさとか辛さとか、それらをずたずたに食い荒らしていったのだ。

 泣きたいときに泣けない辛さを知ったのは、それからしばらく後のことになる。

 無慈悲なほど冷静に、かつ迅速に事件の対処ができたことこそが、自分を見失っていたことの証拠でもあった。

 正しいはずの感情を殺し、粛々とすべきことをこなしていったあの日々は、思い返すのも苦く辛い。

 それでも、ちょっとした戒めのために、少しだけ振り返ってみようと思う。


 *


「ひなぎと出会ったときの話を知りたい?」


 進藤夕にその話を切り出されたのは、七月に入り、今年の夏の猛暑を予期させ始めた日の放課後のことだった。夕がやってきたころにはすでに教室が閑散としており、ちょっとした個人的な話をするのには適した状況だった。


 柏木兄妹と来栖音葉の関係が白日の下に晒されてから、一か月以上の時間が経っていた。しかし周囲と自然に打ち解けた妹と違って、自分はまだ腫れ物のように扱われている。話しかけてくる人は少なからずいる。ただ、彼ら彼女らは深い話まで踏み込むのを躊躇しているようだった。


 それが悪いわけではない。

 むしろありがたい。

 変につつかれず、春先ほどではないけれど、穏やかな日々を送ることができている。


 しかし、こうなることは予想していなかった。

 物語の着地点は決めていたけれど、そのあとどのような変化が起きるかは計算しないようにしていた。

 茜と関係が改善し始めたころは、彼女に相応しくない人間と思われないように自分の価値を意図的に高めていたけれど、今はもう必要なくなっていた。

 柏木飾という存在の評価は常に揺らぎ続けているけれど、不当に評価が下がることはもうないはずだ。

 価値の暴落がないという意味では、多大な犠牲は払ったが強固な地盤を獲得できたと言える。


「ひなぎに確認とったの? 一応、ひなぎのプライバシーにも関わることだと思うけど」


 話を元に戻す。

 過去のことを語るうえで、少なからずひなぎのプライベートな情報に触れる必要があるのだ。

 しかし、そう訊くと、自分の不安を払拭するように夕は大きく頷いた。


「むしろ、藍沢さんからのお達しだよ。本当は、当時の飾について知りたかったんだ。藍沢さんにライン飛ばしたら『それなら、飾くんに直接訊いた方がいいよ』ってな」

「ま、そうだろね」


 出会ったばかりのひなぎに、自分のことはほとんど話していない。関わりも、来栖音葉の事故後、献花台に花を供えに来たときの一度きり。それ以降は、ひなぎの曲を作る和花を通じた、間接的な関わりしかなかった。

 事故当時の自分のことを、ひなぎはまったく知らないだろう。


「どうせ、自分に直接訊くのもまずいと思ったからひなぎに訊いたんだろ? ひなぎなら、深掘りしてはいけない話までは知らなそうだからな」肩を竦めて言うと、夕は驚いたように目を丸くする。

「そこまでお見通しかよ」

「誤算だったな。まさか、話せるようなことがほとんどないとは思わなかっただろ」


 ひなぎに訊いたところで出てくるものがない。

 俺に対する気遣いは、取り越し苦労だったわけだ。


「それで、どうするんだ? 断るなら断ってくれ」夕は遠慮ぎみに言う。「むしろ、その方がいいのかもな。知りたいけれど、知りたくない気持ちもあるんだ。でも、訊きもせずに悶々とするのは、気持ちが悪いからさ。ちゃんと訊いて、真正面から断ってもらえれば諦めがつくし納得できる」

「ま、べつにいいけど」

「え?」


 まるで断られるとでも思っていたような表情を夕はしていた。


「そこまで驚かなくとも。……いいよ、話したげる。当時の、自分のこと」

「どういう気まぐれだ?」

「気まぐれでも、なんでも。いつか誰かに話したいと思っていたし、いい機会だと思って」


 話しながら頷く。

 これは、紛れもない本心だった。

 これまでは、誰にも自分の本心を悟られないように生きてきた。

 知ってほしいことも、知らないでほしいこともすべて分厚い布で覆って、外に漏れ出るのを抑えていたのだ。

 だから勘違いされてしまっているのだけれど。


「実は誰かに自分のこと話すのは、苦手でも嫌いでもないから」

「……?」

「そんな信じられないようなものを見る目で見んとも」


 纏った衣を脱いでしまえば、そこいらの人間とたいして変わらないはずだ。

 やさしくされればうれしいし、きつく当たられればその分傷つく。誰かに対して親切でありたいと思うし、人を傷つけることはしたくない。でも、たまに人を傷つけてしまうこともある。完璧な人間とは程遠い。

 そういう、性格とか性質とか、根っこの部分はいたって普通のはずだ。

 和花とか榛名とか、そういう天才が必然的に比較対象になってしまう自分自身の才能について、『平凡』だと言うつもりはない。自分を低く見積もりすぎるのは、それはそれで失礼な行為だろう。


「わぁってるよ。ったく、調子狂うな。あまり素直になられすぎても、かえって困る」

「そろそろ慣れて」

「慣れたら慣れたで怖いなぁ」


 それは、どういう意味だろう。

 深く考えてはいけないことだと身体が察したのか、頭が回らない。


「……とりあえず、昔の飾のこと、教えてくれるってことでいいんだな?」

「そだね」一度頷いて、あることを思い出す。「ああ、ひとつ条件を追加させて」


 俺の言葉に、夕は怪訝な表情を見せる。……そう警戒しないでいいと思うんだけど。これから話す条件、というか提案は、夕にとっても悪いものではないはずだ。


「今から、あのときのことを話すわけにはいかない。こっちも、話す順序というものをまとめる時間が必要だからね」

「それが条件か?」

「いんや。話すのは次の土曜日。駅前に集合しよう」

「おう」

「それで、次が大事な話なんだけど」


 一旦言葉を切る。


「自分のことを話したいとは言ったけど、何回も何回も、同じ話をしたいわけじゃない。気分のいい話じゃないからね。だから、このことを話すのはこれっきりにしたい」


 思い返すのも、正直キツい。

 あのときこぼせなかった涙が、とめどなく溢れてしまいそうになる。

 でも、辛い思い出にはちゃんと決別しなければならないときがある。

 きっと今がそのときなのだ。

 そして、その大事なことは、何度も何度も繰り返しているようでは価値がない。

 だから、今回一度きり、と制限をかける。


「もうひとり、きっと知りたがっている子がいるはずでしょ。その彼女を除け者にして、後から恨み節を言われたくないから」

「……燈子も一緒にってことか?」夕はすぐに察してくれた。「……俺はいいけど、別にお前は、燈子と特別親しいわけでもないだろ」

「だからこそ、だよ」


 特別親しいわけじゃない。だから、笠原燈子と会うときは、笠原以外にも別の誰かがいた。

 でも、距離を取られているわけでもない。普通に親しい、普通の友人だと、自分は思っている。そういう存在にこそ、秘密を明かしていくべきだと思った。

 もっとも、それだけが狙いなわけではないが。


「それが条件」

「……俺からすれば、ほぼ無条件みたいなものだけどな。飾のこと知れるってなったら、用事があっても優先してくれると思う」

「ならよかった」


 ほっと胸を撫で下ろす。

 まだ、なにをどう話そうかはまとまっていない。

 それでも、自分がなにをしたいのか、頭のなかに光景を思い描いて少しずつ胸が躍ってくる。

 ふと、なんてことはなく、ただ自然に言葉がこぼれる。


「知りたい、って思ってくれて……その、ありがとう」


 そして、夕に向かって微笑みかけた。

 その俺の微笑み方が効いたらしい。夕はくらっとしたように、頭を揺らす。


「……あのな」夕は視線をそらしながら言う。「そういう表情、他人のいるところで見せちゃだめだぞ。男とか女とか関係なく、心が乱される」

「友達をからかう目的で使うのは?」

「もっとダメだっ!」


 夕は、乱れた心をさらけ出すように、大きな声で叫んだ。



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