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85.エピローグ(5)

 私は、夢を見ていた。


 新幹線から電車に乗り継いで一時間、トンネルを抜けると海が見えた。

 東京から北上すること計四時間。都会育ちの自分にとって、初めてのひとり旅だった。家族旅行やマネージャーを連れた地方行脚とはまったく異なり、かなり苦戦したのを思い出す。

 チケットを買ってどのホームに向かって、どの駅で乗り継ぎをして……それらをひとりで処理するのは、思っていた以上に大変だった。船を漕いで乗り過ごしてしまう不安に駆られ、景色を楽しむ余裕があまりなかった。


 それでも、こうやって鮮明にあのときの景色を思い出せる。

 肌が粟立つほどの感動も、マネージャーを連れてこなくてちょっとだけ後悔したことも。

 こんな夢を見てしまったのはどうしてだろう。

 終わりなんてこないでほしい、だなんて子供みたいに駄々をこねたかったのかもしれない。

 東京に帰って歌手としての生活に舞い戻って、できた友達とは離れ離れになって。

 たぶんそれが、とても嫌だった。

 だからこうやって未練がましく、夢の中で思い出にしがみついてしまったのだろう。


 重たい瞼を開ける。


「……おはよ」


 目覚めたとき、隣に飾くんがいて驚いた。

 慌てて記憶を探る。

 なにか奇跡が起こって間違いが起こったのではないか。

 そんな淡い期待は儚く消え去り、昨晩はとくになにも起こっていない事実に肩を落とした。


「よだれ」

「うぇっ!?」


 指摘され、手の甲でそれを拭う。近くにある姿見を見れば髪もぼさぼさだった。

 飾くんは苦笑いすると、「それじゃあ、朝ごはん用意してるから、落ち着いたらおいで」と言って部屋を出ていく。

 扉の閉まる音。

 軽い足音が部屋から離れていく。

 そこでちいさく、息を吐く。


 恥ずかしい姿を見られた。

 いや、もう何度も見られているけれど、何度見られたって慣れない。

 こんな姿、好きな人に見られたくなかった。

 周囲を見渡す。

 昨日まで散らかりまくっていた部屋は綺麗に整えられ、壁際には荷物の詰まった鞄が期待のこもった眼差しで私を見つめている。


「……出番はもう少し先ですよ、っと」


 ゆっくりと身体を起こす。

 そのまま這うようにボックスティッシュの近くまで行き、紙を一枚抜き取る。

 垂れたよだれを拭いたかったわけじゃない。

 綺麗に折りたたんで目元にそれを当てる。

 落ち着いたら、と言われたのはこれのことだろう。

 目が覚める前からずっと、私は泣いていた。


           *


 見送りは飾くんだけにお願いした。

 ほかの人も来たがっていたけれど、出迎えも飾くんだけだったのだ。

 始まりと終わりを揃えることで、これまでの清算をする。

 そういった儀式なのだと伝えると、飾くんは困ったように笑った。


「変な影響与えちゃったかな」

「いい影響、だよ」


 少なくとも、この一ヶ月間で私は、目の前の景色が以前よりも鮮明に見えるようになった。おそらくは、天才が見ている景色というものは情人が見ればその情報量の多さに疲れてしまうほどのものなのだろう。

 もちろん、私が天才になったわけではない。

 影響を受けて、同じものが見えていると身体が思い込んでいるだけだろう。

 所謂、紛い物だ。


 でも、それでいいとも思う。

 かつての目的は達成されたのだから。


『Along with』をもらったとき、私は『私も同じ景色を見られるようになりたい』と願った。

 そのためには浮花川に来る必要があると、意味もわからず思った。

 それが飾くんの狙いだったのはつい最近知ったのだけれど、まあそれはいい。

 私の見ている景色は本物ほど色鮮やかではないだろう。

 本物でなくとも、下駄を履いて似たような景色が見られるようになった。

 たとい紛い物であったとしても、作りが精巧で本物かどうかの見分けがつかないものならば、その人にとっては本物と同然だ。


 綺麗な景色を綺麗と思うだけ。それ以上に綺麗な見え方があると主張されても、見られなければ無意味だし、今見ているものが綺麗ではなくなるわけでもない。

 いまは、それで満足できる。

 あくまで『いまは』だが。


「私、天才には届かないからさ」なんとはなしに言った。平日昼間の駅前は、地方のせいか車通りは多いが人通りは少ない。私たちの会話を聞いている人はいなかった。「……こうやって背伸びして、離れないように手を掴んで、そうやらないと満足にキスもできないみたい」


 私の不意の行動に、飾くんは目を丸くしていた。

 唇が離れる。

 目は閉じなかった。

 飾くんがどんな反応をするか見たかったからだ。

 そのおかげで、こうやって珍しく驚く姿を見ることができた。


「へ、へへ。やったぞ、やってやったぞ」

「……あのねぇ」飾くんは呆れたようにこぼす。「せっかくほとぼり冷めてきたのに、こんなところでスキャンダルの種作らないでよ」

「照れてる?」

「言っとくけどね、自分よりきみのほうが顔真っ赤になってると思うよ」

「それは知ってる」


 死んじゃうんじゃないかというぐらい身体が熱かった。

 心臓の鼓動がうるさい。

 少しは黙れ。

 なんて心の中で叫ぶけれど、逆効果になっている気がしてならない。


「スキャンダルの種って言うけどさ」心の中の熱を誤魔化すように言う。「今、私ウィッグ着けてるからバレないって」

「世間に気づかれなくても、みんなには気づかれる」

「気づかれたくないんだ。……誰か好きな子でもいるの?」

「……」


 飾くんは押し黙った。しかしこれは図星という反応ではない。何を言っても不正解に思えるから、返答に窮しているだけだ。特定の誰かを特別好きなわけでも、かといって自分のことを特別好いてくれているわけでもないだろう。

 飾くんは、誰かを自分から特別好きになる人間じゃないと思う。


 でも、執着してもらえるだけ、今はありがたいと思う。

 おそらく『好き』も『愛情』も、あるいは『嫌悪』も、執着の一種なのだろう。

 そして執着というものは、する側もされる側も縛りつけられる。

 その縛りこそ、柏木飾の原動力であり、生きる理由だろう。


「私、思った」


 改札を抜け、プラットフォームに出たところで飾くんに言う。


「私、思ったの」


 太陽の光に照らされた葉桜が、嫌になるほどに映えている。


「たぶん私って、強欲だ」


 その独白に、飾くんは驚いたように目を見開いていた。


「手離したくないものが、諦めたくないものがこんなにも多い」


 それは自分が恵まれている証拠だ。

 たくさんのものが今私の周囲に集まっている。

 だから、みんな大切で、みんな幸せになってほしい。

 私の手で掬えるものはあまり多くないというのに、欲張ってなにもかも求めてしまう。


「全部、飾くんのせいだ」服を掴んで、胸に頭を押しつける。「こんなにも欲張りになっちゃったのは、私の憧れたきみが大切なもののために全部なげうつところ、私に見せたからだよ」

「……それは、」

「謝らないで。そんなきみが大好きなんだから」


 電車が来たことに気づいて身体を離す。

 飾くんは少し泣きそうだった。

 私は、強がって微笑む。


「またすぐ会いに来るよ」


 会えるだろうか、と内心不安に思う。本格的に復帰すれば、溜まっていた分の仕事が一気に押し寄せてくるだろう。

 私の活躍を見ていてもらいたいと思う半面、あまり忙しくはなりたくない。


「……これからは、希少価値を上げるやり方にシフトしていけばいい」


 思っていることに気づいたのか、飾くんはそう言って笑った。


「やだよ。やりたいと、やりたくないは同居するんだ。忙しくなって飾くんと会えなくなるのは嫌だけど、歌手の活動が減るのも嫌だ。……わがままかな?」

「ううん、そのぐらいなら」

「でしょ。結局さ、」電車のドアが開く。「やりたいこと、やりたくないことは常にぶつかり合っている。だから、どこか納得できるところで折り合いつけて、上手に生きるしかなかったんだね」


 脇に置いていた荷物を持ち、もうすぐ止まろうとしている電車に向かう。

 本当は、離れたくなかった。

 飾くんの近くは空気がいい。居心地がよくて、まるで野生を忘れた動物園の猛獣みたいな、そんな感じになってしまう。


 自問自答だ。

 私は、どうしたい?

 どうすれば上手に生きられるかな。


 考えて、考えて、考えて、悩み抜いた果てに、結局は東京に帰って以前と同じように音楽活動をすることが一番だと判断した。

 欲張りなのだ。

 飾くんも大事で、歌うことも大事で、これまでの活動も無駄にはしたくない。新しくできた友達も、あずさも、みんな大事で、みんな幸せになってもらいたい。かといって、茜に飾くんを譲るというのも、茜から飾くんを譲られるというのも私は納得できなかった。


「茜のこと、大事にしなよ」

「ああ、うん」

「私が浮花川に戻ってきたら、私のことも大事にしてください」

「……うん」


 飾くんが、こんな欲張りなやり方しかできないどうしようもない人間なのだということを、この一ヶ月間で思い知らされた。大切な人のために尽くしすぎて、自分を犠牲にしすぎてしまうところも。


「自分を大事にして。そうしてくれると私はうれしいし、そうしてくれないと私は悲しい」

「……はは、肝に銘じておくよ」

「なら、よろしい」


 小さく頷いて、鞄を持っていない右腕で飾くんを抱き締めた。


           *


 電車が発車し、私はゆっくりと息を吐き出した。

 来るときも、帰るときもひとりだった。

 でも、来るときにあった孤独感は今はなく、隣に誰もいないときでも、独りじゃないと思うことができる。

 それがこの一ヶ月間の成長で、少し退化したことのようにも思う。

 孤独で戦うことができる強さをもがれた、のかもしれない。

 人は、人と協力して物事に取り組むことで大きなことを成すことができるけれど、独りで戦う強さもまた、とても綺麗なものに思えるようになった。

 失われた、のではないと信じよう。

 幸せに包まれて、少しだけ忘れてしまっただけに違いない。


「…………っ」


 その強さを忘れてしまっているからこそ、今こんなにも涙が溢れてきてしまうんだ。

 思い出の景色が遠ざかっていく。


 戻りたい、と強く思える場所ができた。

 好きな人をもっと好きになれた。

 新たにとても好きになった友人もできた。


 それがどんなに素晴らしいことで、どれほどの幸福か、今はまだ全然実感が湧かないけれど。


 時間を経て、過去を他人事のように思い返せるようになったとき、きっとその価値を知り、また泣いちゃうだろう。

 それでいい、と強く思う。


 だから今は目の前にある、『またね』と言える幸福を、電車に揺られながらゆっくりと、噛み締めたいと思う。


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