84.エピローグ(4)
兄が彼女を連れてきた。
それは、進藤夕の小学三年生の弟から見た自分に対する感想だったわけだけれど、夕の両親からの扱いも、兄が息子に変わるというだけで大して変わりなかった。
いくら自分が男と説明しても、こんな男がいるか、と当然のように返される。男としての自信は、まあ元からあまりなかったけれど、少し現実を見せつけられた気がする。さすがに確実に男だとわかる部分を見せるのは、公序良俗に反する。要するに手詰まりだった。
現在時刻は午後八時。
柏木家で行われている女子会の、いわゆる『裏番組』みたいなものだ。(一応)女子ではない自分は柏木の家から追い出され、そこを拾ってくれたのが数少ない男の友人である進藤夕だったわけである。
「別に、他意はないからな」
そう何度も念を押されるのが、むしろ怪しかった。だがしかし、今日は夕を頼らねば、寝る場所に苦心することになる。夕は一応、笠原燈子のことを好いているはず……なので、間違いはないと信じることにした。
もちろん、友人宅ではなく、別の家を頼る方法もあった。
従姉である唯さんの家でも、あるいはバイト先である喫茶『Lonely』でも、はたまた檜葉旅館やそのオーナーである律さんの家でも、選択肢は意外と多い。
その中で、いろいろと面倒ごとも考えられるところを選んだのは、夕と話したいことがあったからだ。
「……要するに『Minor』はお前じゃないってことか?」
「そういうこと」
お風呂上り、夕の部屋にて自分はある程度の情報開示を行っていた。
「『Minor』はここ一か月世間を賑わわせていたけど、基本的に自分は『Minor』に手出し口出ししていないわけ。気まぐれでコンセプトアートみたいなものを描いて、それに合わせて榛名が曲作りをして、あずさを中心とした動画班がMVを作る、みたいな感じ」
だから、基本的に世に出回っている作品は自分の手元から離れていて、柏木飾の作品とは言えないものだった。
「『舞奈』という名前も使い捨てだった。ある意味分身体である『Minor』とリンクさせるために適当に名前を引っ張ってきただけで、以後この名前で活動するつもりはまったくない」
名義はいくつもあるけれど、とりわけ『舞奈』という名前は、今回の一件のためだけに用いるための名前だった。
そのうち考えが変わる可能性はあるけれど、今のところはこれ以上舞奈と名乗る予定はまったくなかった。
「はぁ、よくわからないけど」夕は小さく息を吐き出す。「要するに、こうなる未来を予測して飾は動いてきたわけだ」
「うん、そういうこと」
「いつからだ?」
「ひなぎに曲を贈るって決めてから、何パターンか考えてた。でも、プランが決まったのは曲の茜と関わりが戻ってきてから。どれだけシミュレーションしても、来栖音葉との関係が明るみに出る未来にしか導けなくて」
思い描いていた理想は誰かに暴露されることなく、自分からひなぎに秘密を打ち明けられることだった。だが、交友の広い茜が自分たちの輪の中に入ってくると、計算が狂う。
もちろん茜が悪いわけではなかったし、茜との関係が改善したことはうれしいことだ。そのことで茜を責めるつもりはまったくないのだけれど、来栖音葉と俺たち兄妹の関係が暴露されることを前提として動くことを余儀なくされた。
「よくそんなことできるな」
ある程度未来をコントロールしようとしていたことを、夕は素直に感心していた。個人的には、大してすごいことをしていたという実感はないけれど……他人から見れば、凄まじいことなんだろうな、と俯瞰して考える。
「難しいことじゃないよ」念のため、自分のやり方を説明することにした。「人を無理にコントロールしようとしているわけじゃない。流れを用意して、人が自然とその流れに乗れるように気持ちを作ってあげるだけ」
その時々で、多くの人々は場を支配する空気に流される。自分がやっていることは、場の空気を操って自分の望む流れへ促すこと。難しいように思えるけれど、人間関係や人間の心理を理解していれば、あまり難くはない。
実際、意識的にしろ無意識にしろ、自分の思い通りにいくように場の流れを支配している人間は少なからずいるはずだ。
それを、より自覚的に、大規模に行っているだけだ。
当然悪用すれば洗脳にすら使える技術だけれど、悪用するつもりはない。
「なにより大事なのは、なんでもできると思わないことと、なにもできないとは思わないこと。自分の実力を過小評価も過大評価もせず適正に評価する。現実はままならないことの方が多いんだ。だから最終的には、起こりうる未来を予測して覚悟を決めることしかできないよ」
まるでこうなることが狙い通りとでも言いたげな表情をして、強がる。
そうすることで、背負う痛みをできるだけ小さくしている。
「どれだけ痛くてもどれだけ苦しくても、頑張らなきゃならない三年間だった。妹が事故で死ぬかもしれないってなったときは、一度心がぽっきり折れた。榛名に頭が上がらないのは、そのどん底から引き上げてくれたからだ」
「ん、あー……」夕が少し気まずそうな顔をする。茜の気持ちもひなぎの気持ちも、夕は知っている。「飾は榛名ちゃんのこと、どう思ってるんだ? やっぱり恋愛的な意味で好きなのか?」
その質問に、思わず吹き出して笑ってしまう。
いつかは誰かに訊かれることだと思っていた。ちゃんと予想通りになったことを笑えるのは、いくらか背負っていた重荷が少なくなったからだ。
「ま、二人には悪いけど、今のところは榛名の方が心のなかの比重が大きいかな」
「……だろうな」
「でも、結婚とかはしないと思う。というか、そういう暗黙の了解がある」
「なんで?」
「相性がよすぎるから。これはまあ、榛名がほかの人に言ってることだと思うけど」
頭の中で言葉を選ぶ。
「大切に思っているからこそ、お互いの成長を阻害する関係にはなりたくない。別に結婚しようが、お互いに依存しすぎないようにすればいい、と思うかもしれないけどね、『婚姻関係』ってそれ自体が特別で『結婚』という言葉自体に大きな重みがある。だから性的マイノリティーの人だって、ルールや法律を変えて便宜上のパートナーから『婚姻関係』になりたいんじゃないかな」
夕は静かに聞いている。ちゃんと理解してくれているだろう。だから安心して話ができる。
「もちろんね、婚姻関係から得られる社会的な地位や利益が望んでいる人もいるとは思う。それは綺麗じゃない……が、婚姻関係から得られる利点を目的に結婚する男女もいるわけだ。だから難しい議題だと思うんだけど。……あれ、なんの話だったっけ?」
「……お前と榛名ちゃんの関係の話」呆れながら夕は言った。「お前は普通に女子の方が好きだろ」
「そらそう。顔はこんなだけどね」
にへら、と笑って、女性らしさを出してみる。夕は沈黙。いや、黙り込むなよ。
「……飾が女だったら、俺はお前のことが好きになってたと思うよ」
「きも」つい本音が出てしまった。「……それは、笠原に悪いから男でよかったよ。あと夕が男も好きになれるような人間じゃなくて、ね」
この一ヶ月間で変わってしまったものがたくさんある。
ひなぎと茜との関係は、以前のものとはまるで違うものになった。
それはもちろん、悪いことじゃない。
ただ、変化がなかったものもたくさんある。
自分と夕の関係がまさにそうだ。
知ってもらいたかったことも知られたくなかったものも、たくさん知られてしまった。でも、こうやって夕と以前と同じく会話ができる。そこに変化は見られない。一ヶ月前の自分たちと今の自分たちとで、驚くほど変化がなかった。
そのことに、ひどく価値を感じてしまう。
恐怖に苛まれながら生き続けた毎日だった。
妹のため、妹のため、と自分を奮い立たせていたけれど、実際は違った。
何かのため、という大義名分がなければ生きられない、空っぽな人間であることに気づくのが怖かったのだ。
重荷を下ろし、分配し、それが終わった先に自分にはなにが残るだろう。
いっそのこと、死んでしまえばよかったな、なんて思ってしまう。
まだしばらく終わりが来ないことに絶望している、そんなかわいらしい自分がいることに気づく。
この空っぽは独りでは埋められない。
誰かが柏木飾という器に、夢や理想という綿を詰め込むことで、自分は生きられる。
そこまで考えて顔を押さえた。
心配したように夕が声をかけてくる。
兄が彼女を泣かせた、なんて無邪気な声。それすら、どこか遠く。
今が幸せだった。
つかの間の幸せかもしれない。
幸せなんて、不幸せなことを忘れているだけだ。
現実に戻れば、また不幸と隣り合わせな日常が続くだろう。
でも、今はそれでいい。
よく頑張った。
今の自分はかつてないほど空っぽで、明日なにして生きればいいかもわからないほど迷子になっている。
だけど、今はそれを楽しもう。
やりたいことはきっと見つからないだろうけど、例えば少しお高めの牛乳を買ってみるような、そんな幸せだけを噛み締めながら歩き続けるつもりだ。
そんな自分に、こんなにみっともなく泣いちゃうことができるらしい。




