83.エピローグ(3)
「ああ、そういえば」茜が眼鏡を拭きながら言った。夜だからコンタクトを外して眼鏡をかけていた。「ひと悶着、あったよ」
「ライブで?」
「いや、違う。飾と春日が……ああ、あたしたちと中学も同じだったやつが鉢合わせになったの。飾たち兄妹の親子関係が漏れた根っこの人物なんだけど」
「ああ」察したようにあずさは頷いた。
「あたし、飾があんなにブチ切れてるの初めて見た……ああ、いや違う。初めて気づいた。謝罪拒否。にっこりしたまま『ああやって広まらなきゃ、みんなに伝えられなかったと思うから。ありがとう』って言って、終わりだった。もうね、怖かった」
「兄さんの常套手段だね」
和花が苦笑いして肩を竦める。
「母さんのときもそうだった。不慮の事故で、相手の過失がどれほどか教えてもらえなかったけど、相手が母親と小さな子供の二人で『家庭もあるから』とかほざいて慰謝料ももらわないの」
その話を知らなかった全員が凍りついた。
茜は、頬を引き攣らせる。
「要するにね、罪を償う機会を与えないことが、根は善人なやつを苦しめる一番の方法だと思ってるんじゃないかな」
そうかもしれない、でもそれだけじゃないかもしれない。
茜は静かに黙り込む。もちろん、和花の言葉通りのところもあるだろう。だが、はっきりとした罪を負わせられない理由もあったんじゃないか、なんて嫌な考えが思い浮かんでしまった。
かぶりを振って、どうにか考えをかき消す。
「お金に余裕ある家だからできることだよね……あはは」
ひなぎが飾の行動に恐怖を抱いていた。
一般家庭であれば、一家の稼ぎ頭がいなくなれば先行きの見えない不安に苛まれる。ところが、柏木の家に貯金が山ほどあるのはひなぎでもわかることであったし、柏木飾も柏木和花も、自分でお金を稼げる実力があった。
そこでひなぎは思い出す。
「そういえば!」目を大きく開いて、身体中の血が勢いよく巡っているような様子だった。「飾くんが『舞奈』だって、和花ちゃん気づいてたんでしょ! どうして教えてくれなかったのっ?」
「兄さんが自分で伝えたいことだろうと思ったからね」
そう言われてしまうと、ひなぎは何も言い返せない。和花が兄の意思を尊重した、ということは、言われてみればその通りだった。
「それに、私は兄さんから直接『舞奈』だって教えてもらってないよ。ただ、兄さんの作品は音楽に関わらず異質だからさ、一瞬でわかる。わかっちゃう。家族だからとか関係なく、クリエイターとして、ね?」
いわゆる『目がいい』『耳がいい』ということだと、ひなぎは理解した。
もし兄妹が兄妹でなかったとしても、柏木飾の作品は異質であるがゆえに和花には容易に見抜けるというだけの話だ。
「私は話さなかったんじゃなくて話せなかっただけなの。推測を無闇矢鱈に話すのは無責任だ。だからね、文句を言うなら隠していた本人か、事実を知ったうえで道化を演じていた誰かさんだと思うけどな」
和花の視線がひとりの少女に向けられる。全員がその視線の先を見た。
少女はいつも通り双眸を眠たげに細めながらジュースのストローに口をつけていた。細くしなやか金髪がエアコンのささやかな風に揺れている。
「榛名。別に隠していたことを非難するつもりは毛頭ないんだけどね」和花は普段通り感情豊かな声で言う。「でも、パンドラの箱は開けられて、隠すべき秘密は大方表に現れた。今なら開示できる情報があるんじゃないかな、かな」
「今日日その語尾ですぐに伝わる若人も少ないと思うけど」
「茶化さんでよろし」
和花のつっこみに榛名は肩を竦めるばかりだった。
どうやら、知りたいことがあるならちゃんと聞き出せ、ということらしい。
そこでようやくみんなが気づいた。この来栖榛名という少女について、実はあまり知らないのではないか、ということを。
そして、知らないことが多いということに気づくと、どれから訊けばよいのかわからなくなる。そういう風に人間はできているらしい。
「うん、その反応が正解」
榛名は平坦な声で言った。まるで誰もが黙り込んでしまうことを読んでいたようだった。
「わたしは、言っときますけど、特に裏表がある人間じゃありませんよ。平常時からコレで、物事に対して主観的になることは珍しい。今回の一件も最初から最後まで飾さんとその周囲の動向は読めていました。だから、わたしはわたしに相応しい役回りを演じたにすぎません」
榛名は視線を上に向け、少し前髪を弄る。
「わたしは、ええ、そうですね。今のところは飾さんのことばかり考えながら生きていますよ」
茜とひなぎはそこで心臓が飛び上がる。
榛名の口からそこまで直接的な話が出てくるとはまるで想像していなかった。
「それは恋愛的な感情かというと違うとは言えません。ですが、実際はもっと複雑なんです。妹のために献身的なところに惚れたということもありますし、危なっかしい従兄を心配する気持ちも、家族を失った柏木兄妹に寄り添いたいという気持ちもすべて本物です」
誰もがその独白を聞いて黙り込んでいた。
「……ただ、本当のところは、柏木飾という天才を、自らの手でブラッシュアップして、世間の人が理解できる領域まで落とし込みたい、というのがわたしの願望なんです。『Minor』の起こりは、そんな感じでした」
発言が飛躍する。
結びつかないところを無理やり結びつけられてしまった、とひなぎは錯覚した。
実際は気づいていなかっただけでどれも連続していて、深く絡み合っている。拗れている。
そこでようやく、この家で本当に恐ろしい人物が誰だったのか気づく。
ひなぎは唖然とする和花の顔を見る。舞奈は兄であると早々に気づけた和花であっても、事の真相には辿り着いていなかったらしい。柏木和花が自分と同じだったことに、なぜだかひなぎは心底安堵する。
「『Minor』は、私が柏木飾という天才を表現するために作りました」
榛名は世間話のように言うと、さらに補足する。
「和花の言った通り、飾さんの作品は異質で理解しがたいものも多い。だから、わたしがそれを噛み砕いてみんなが理解しやすい形にする。『Minor』は要するに、わたしが解釈した柏木飾なわけです」
榛名はそこまで言って満足してしまったらしい。
締めと言わんばかりに最上の笑みを浮かべると口を閉じてしまった。
あずさは……『Minor』の共同作業者のひとりである彼女は、この女子会がこのあと円満に終わるのだろうか、と榛名の言葉をそれぞれが咀嚼し終え次の雑談が始まるまで不安に思い続けていた。




