80.夜明けの前に
ひなぎたちは唯さんの車で帰ることになったけれど、あたしと飾はチェックアウトの準備が必要だったから、彼女らから少し遅れて旅館を出ることになった。
部屋を片付け、少ない荷物をまとめ、ある程度掃除をする。どこかから飾は掃除機を持ってきて床のゴミを吸い取り、私はテーブルなどを拭いて綺麗にした。
長いようで短い時間だったな、と思う。
男女二人で同じ部屋に泊まって、何もなかった方が不健全かもしれないけれど、結局のところ何も起きなかった。
期待していなかったわけではなかった。
でも、わざと誘うようなことはしなかったし、する気も起こらなかった。
それに対する後悔は一切ない。一線を超え、関係を深めようと思えばできたかもしれないけれど、それが間違った選択であることは明白だった。
「そろそろ行くよ」荷物をまとめ、部屋の出入口付近に立っていた飾があたしに声をかける。「忘れ物とかない? 大丈夫?」
「ああ、うん」
流されるように頷く。
少し上の空だった。
ひなぎたちの生配信の少し前、夜、飾が語ったことに思いを馳せていた。
ぼんやりとした頭のまま飾のそばに行く。飾か戸を開けたのでそのまま部屋を出かけて、すんでのところで踏みとどまった。
「あ、ごめん。忘れ物あるかも」
「そう? 探すの手伝うよ」
「いや、いい。十分くらいで見つけられると思うから酒飲みの女将さん……律さんに車の準備お願いしといてよ、うん」
あたしの言葉に飾は首を傾げつつも部屋を出ていった。あたしは、閉じられた扉を前に、忘れ物なんて探すこともせずにその場にへたりこんで顔を押さえた。
忘れ物なんてない。
飾と一旦距離を置くための方便だった。
──すんなりと物語が終わったなら、本当はよかったのだろう。
でも、すべて綺麗事では済まされない。
飾が真実をみんなに明かさないから、あたしがこんなに苦しむ羽目になっている。それが悪い、とはあたしには言えない。結局今もなお一番苦しい思いしているのは飾なのだ。
その断片を、少しだけ語らせてほしい。
*
「死ぬかもしれない。死なないかもしれない」
──心中しよう、とそう語った飾の次の言葉が、それだった。
混乱を深めるあたしの頭に、飾の言葉の意味を理解する力は残っていなかった。誰が、を示す代名詞もなく、なんとなく飾が言葉をぼやかしていることだけは理解できた。
飾はいつもこうだ。
知ってほしいけど、知ってほしくない。そんな矛盾というか、ジレンマというかを……そんなものを抱えながら生きている。
人の心がそう単純にはできていないからだ。
辛さとやさしさは矛盾せず心の中に存在し、辛いことを打ち明けて楽になりたい気持ちも、辛い気持ちを他人に押しつけたくないやさしさも普通に同居できてしまう。感情豊かであるがゆえに、飾はよく対立した感情の板挟みにあっている。
あたしたちは無言のまま浜から遠ざかり、歩き始めた。
ゆっくりと歩きながら、飾の横顔を眺める。顔は大して緊張していないように見える。いつもよりリラックスしていて、色々と肩の荷が降りたのだろうかと思う。
ほんとうにそうだろうか。
ほんとうに肩の荷が降りているのなら、意味深長な発言は不必要なものだ。
なら、飾の言葉の意味をしっかりと考える必要がある。
今のところ、それしか糸口はない。
「ちょっと……独り言するから」
前もって断りを入れておく。飾はなにも言わなかった。勝手に肯定と受け取って、思考を深めていく。
まず第一前提として、飾が言葉をぼやかす理由を出しておく。これは、昔から変わらない。気づいてほしいから、言葉をぼやかすのだ。
正直に言えばいいのに、と思う人もいるだろう。
だが、それは知ってもらうことを重要視した場合の結論でしかない。
理解してもらえること、理解しようと努力してもらえること、を重要視する人間はすんなりと正直に胸の内を明かしてくれない。飾がめんどうくさい人間たる所以のひとつ。
では『なにに気づいてほしいのか』、それが二つ目。
ヒントは先ほどの飾の言葉。
「……誰が」
死ぬかもしれないし、死なないかもしれないのか。
わざと答えから遠いところから考えることにした。あたしや、燈子、進藤くんといった飾の友人たちは、まったく死の気配がない。あたしが観測しきれていないだけかもしれないが、少なくとも、文脈から考えても可能性は薄い。
ならあたしのあまり知らない飾の親戚たちはどうだろう。
いや、さすがにない。あたしに言う意味がない。
榛名は、彼の従妹なら、ありうる。あたしと少なからず知り合いだし、飾の思い入れも深い相手だ。
そういう意味で言うのなら、飾の妹の和花の方こそ、である。
……現実逃避はこのぐらいにしておこう。
一番可能性の高い人物は明白で、今のあたしは可能性を潰すという名目を引きずり出し、遠回りをしていただけだった。少し、みっともない。
そんな自分も、飾のことも受け止めるために、ゆっくりと深呼吸した。
ふと、飾が足を止めた。
あたしたちは墓地のそばを歩いていて、近くに街灯はなかった。月や星の明かりと、スマートフォンのライトだけが周囲を照らす光源だ。明と暗の甚だしいコントラストが、いやに心を凍えさせてくる。
そのなかで、あたしたちはとあるお墓の前に行きつく。
明かりに照らされて、まだ萎れていない花が供えられていることに気づく。
「……ここって」
「父さんの墓」
「ここが……」
かの有名な飾のお父さんのお墓、そう思っても、あまり実感が湧かない。あたしと飾の父親は面識が一切ない。あたしの両親の親友だったらしく赤ちゃんだったころに引き合わされてはいるらしいけれど、誰が飾の父親かをちゃんと認識する前にすでに亡くなってしまっていた。
「なら、飾のお母さんも」
「……」
「え?」
そこで飾は首を振り、黙した。
「な、なら、お母さんの実家のお墓とか? それとも自然葬とか……」
あたしの言葉に、飾は首を縦に振ることはなかった。その沈黙が、まるで答えの輪郭を現すようにあたしの頭の中を通り抜けていく。
普段なら、あたしはもっと察しの悪い人間だった。
鈍感とばかり言われていた人間だ。察しが悪くなければおかしい。
でも今は、自分でも驚くほどに冴えていた。
おそらくは、ここ数日飾と寝食をともにしてきたからだろう。柏木飾という天才に影響を受け、一時的に察しがよくなっているだけだ。
だから、気づいてしまったこと、気づけてしまったことを驕ることはしない。真実に気づけたことを示すサインを飾に見せ、そのあとはひなぎたちの生配信を二人で視聴し、夜が明けるのを待っただけだった。
そのときは、よく泣かなかったものだと、あたしは過去のあたしを褒めたかった。
*
情報をまとめよう。
死ぬかもしれないのは誰か。
どうして飾の母親は、父親と一緒の墓ではないのか。
『心中しよう』という言葉の意味はなんだったのか。
――そもそも、柏木音葉は死んでいるのか。
三年前の事故自体は実際に起こった事実だ。
もし音葉さんが生きているのなら、それを和花に隠す意味や理由があるはずだ。
情報を整理し、点と点を線で結んでいく。
死ぬかもしれないのは、飾。
音葉さんは死んではおらず、生かされている。
事実を隠しているのは、それが和花や周囲にとって明るい情報ではないから。
ぼやかされた情報の輪郭を自分で補って、そうやって導き出されたものは、飾にとってあまりにもやさしくない現実だ。
『心中しよう』という言葉の意図は、残酷な現実を知る共犯者へと、あたしを道連れにするためのものだった。
きっとひなぎや和花は、これまで起こっていた問題はすべて解決したと思っているはずだ。
飾の抱えていたものはいくらか解放され、背負うべき人のもとへと旅立っていった。悔しいけれど、いくらかイレギュラーはあったにせよ、ここまで起こっていた出来事はすべて飾の予想していた通りだった。
そうやって事実のいくらかを解き放ち、それを目立たせることによって、隠したい真実を覆って見えなくさせてしまった。
残されているのは、飾自身が抱えなければならないもの。
「これじゃあ、飾のひとり勝ちだ」
湿った言葉を吐きながら、思う。
あたしに、みんなに隠した情報の断片を話した意味だ。
きっと独りで抱えるのは辛かったのだろう。
飾のことだ。
自分が抱えるべきものだからと、家族にも親戚にもこのことは誰にも話していないだろう。
そんななかで、あたしを頼ってくれたことはうれしかった。
頼ってもらいたかったのだから、本望だ。
ただ。
ただ、こんなものを独りで抱えさせられていたのかを考えると、もう涙が抑えられなかった。
飾の方が苦しいからと、今の今まで我慢してきた。
でも、もう無理だった。
とんでもないものを背負わせてきやがって、ふざけんな。
ふざけんなよ。
なんで、飾だけがこんなものを背負わされなければならなかったんだよ。
何度も思ってきた感情だけれど、ここまで強く思ったのは初めてだ。
世界は、決して平等には作られていない。
人に与えられる才能だって、性格だって、環境だって、生まれたときから死ぬときまで……いや、生まれる前も死んでからも歪で凸凹だ。
その不公平さの恩恵を与ることも弊害を背負うことも当然あるなかで、みんな欲張りだから幸運ばかり拾いたがる。それが悪いとは言わない。不幸なことは誰だって辛い。
だから、誰か特定の人物を妬んではいけない。
そんなこと、最初からわかっている。
それに、この問題は、本当ならあたしには全く無関係なことだ。
あたしが思い悩む必要はないはずだった。
だからといって、飾を恨むわけでもない。
頼ってもらえたことがうれしかった。
頼ってもらえる自分になれたこともうれしかった。
ても、自分は弱かった。
残酷すぎる現実に耐えきれず、こうやって嗚咽を抑えられない。
余裕綽々と飾のことを受け止め、やさしく抱きしめてあげられたならどれだけよかったことか。
まさしく今のあたしが、飾が危惧していた『残酷な現実に桃川茜は耐えられない』を体現しているようで、愚かしい。
あたしの思い描いていた理想は、結局のところ理想にすぎなかった。
無責任だな、と思う。
過去を悔いて現実を知ろうとした結果、将来を嘆き悲しんでいる。
あたしは飾が好きだ。
飾以上に好きになる人なんて、これから先現れないと思う。
それぐらい好きだった。
だから、こんなにも悲しい。
今も飾が好きだけれど、だからこそ、自分の弱さを受け入れられない。
絶対に諦められないから、こうやって今も惨めに泣いてしまう。
もうすぐ夏が来る。
高校二年の夏だ。
そこにきっとひなぎの姿はないだろう。
東京に帰った彼女は、あたしとは別のアプローチで、歌手としても人としても強くなるために頑張るのだろう。
あたしも負けていられない。
ひなぎが遠いところにいる間は、あたしが強くあらねばならない。
「ねぇ、見つかった?」
扉の向こうから、呑気な声が聞こえてくる。
悩んでいるのも馬鹿らしい、そんな声音。
少し力が抜けて、仕方がなく「ううん、気のせいだった。今行く」と返す。
もちろん飾の声は、『泣いているあたしを元気づけるための演技』だと気づいている。
今日は、騙されてあげる。
いつか、あたしが飾を支えられるようになったらこう言って仕返ししてやろう。
『言ったよね──心中しようって』、と。
飾がいつか死んでしまうのなら、そのときはあたしも死んでやる。
死なれたくないなら、死ぬ気で生きてみやがれってんだ。
 




