8.気まずい昼下がり
お昼の忙しい時間帯を問題なく乗り越え、時刻は午後の二時になるぐらいだった。ひなぎが奥の個室に引きこもり、タブレットで勉強を始めたタイミングで少し気が抜けていた。
からんころん、と扉につけられた来客を報せるベルが揺れる。それ自体はいつものことで、お客さんの使った皿を洗いながら「いらっしゃいませ」と声をかけた。
セーラー服を着た二人組だった。
片方は、真面目そうなこげ茶色のおさげ髪。夕の幼馴染みの笠原燈子。ここに来るのは珍しいな、と思う。なんでも俺はクラスメイトの柏木飾、ではなく夕と親しい同い年ぐらいの女の子と思われているみたいだ。それは誤解なのだが、否定しようとすると俺の正体に気づかれてしまいかねない。だから誤解は解けないでいる。
もうひとりは。
「え」
その少女は俺の姿を見て、固まっていた。
幼馴染みだった。
茜が、ここに来るのはもしかすると初めてかもしれない。少なくともこの驚き方は、俺がここにいることを知らなかった反応だ。
「茜、どうしたの?」
「い、いやなんでもないけど」
動揺を指摘され誤魔化すも、笠原はその異変に気付いていただろう。じっと俺を見て、またこいつか、と言わんばかりの視線を向けてくる。さすがにすべての責任を俺に押し付けないでほしい。
笠原が先導して歩くと、迷わずカウンターに座った。茜は戸惑いながらも隣に座る。
事務的に水の入ったコップとメニューを差し出す。少し冷たい声で笠原は「ありがとうございます」と言った。
「ここ、夕が贔屓にしてるのよ。その付き添いで何度か来てて、料理もおいしいしコーヒー豆や紅茶の茶葉もセンスがいい」
「そりゃあ、ね」
茜がちらと俺を見た。そういえば茜は俺が料理を得意としていることも、コーヒーや紅茶に凝っていることも知っていた。
「どういう関係なの、あの子と」
「どうってことはないよ、ただの幼馴染みってだけ」
「なら、もっと親しそうにすればいいじゃない。なんか、すごい気まずそう」
「仕事モードみたいだから、そっけなくしてるんじゃない? ほら、バイトしてるときに知り合いに会うと気まずいでしょ。それと同じで」
「……うちの高校、バイト禁止よね」
「あたしは親の手伝いだからいいの。ん? あれ、それなら飾は……」
会話を盗み聞きするつもりはなかったけれど、カウンター席にいられるとどうしても聞こえてしまう。罪悪感はないが、気まずい。
その気まずさを顔に出さないようににこにこしていると、意を決したような声音で茜が話しかけてくる。
「……なんでここで働いてんの?」
「や、その、ここ唯さんの店だから」
「あ、そっか。そういうこと」
茜は唯さんと俺の関係はある程度把握している。親戚の経営している店でバイトをしているから、問題がない。それがすっと伝わって、ほっと胸をなでおろした。
「なにかおすすめってある?」
「なんでも美味しく作れるよ」
「それ、困るんだけど。じゃあ、飾のおすすめ適当に持ってきてよ。お金は払うから」
「……いいよ、サービスするって」
「いいの?」
「ここのメニューって高校生の財布にはやさしくないから。あ、笠原はどうする?」
「……私も同じもので大丈夫です、けど」
表情を険しくさせた笠原を見て、自分の失態に気づいた。なんで俺が俺だと気づいていない相手を、名前で軽率に呼んでしまったんだ。
努めて平静を装いながら、笠原の言葉を待つ。
「茜、この子のことを紹介してくれる?」
「……あー、えっと」
俺が学校で顔を隠している意味を理解しているからか、茜はどうしようか迷っているようだった。
観念しろよ、と心の中で何度も言い聞かせる。
笠原に気づかれたところでどうってことはないだろう。信頼できる人物で、節度を守る真面目なやつだということは知っている。
それでも心が晴れない意気地なさが、生きづらさの要因なのだ。
散々迷った挙句、すべて茜に任せることにした。
ひさしぶりのアイコンタクト。すべてを察したみたいに苦笑いをすると、言葉を選んで俺のことを紹介し始めた。
言葉を選んで、とは言っても、大体のことは包み隠さず説明していた。
俺が同じクラスの柏木飾だということも、三年間あまり話をしていなかったことも、同じクラスになって距離感が掴めずどぎまぎしていたことも、茜なりに噛み砕いてわかりやすく説明してくれた。さすがに、疎遠になった理由は話さなかったが。
何か笠原が追及してくるかと思ったけれど、それはなかった。
茜の話を聞きながら俺の表情を窺って、最初は驚いて、そしてひとりで納得すると、ただただ呆れたような表情になった。
きっと内心こう思っているのだろう。
こんなやつだから、茜が苦労しているんだ、と。
否定はできない。おおよそ事実だし、自分の情けなさには俺自身ほとほと呆れている。
変われるならとっくに変わっている。鍛造みたいに熱でやわらかくして金槌で叩けばどうにかなるだろうか。……いや、無理だな。人間の本質を変えるのは、鈍い痛みより創傷のような鋭い痛みのほうがいい。
……と、そんなどうでもいいことより、まずは注文の品が先だ。
午後二時だから、さすがに昼食というわけではないだろう。五月の中頃には中間テストが待ち受けているから、それに向けての勉強会でもしていたのかもしれない。
いろいろ考えて、レモネードと作り置きしてあるシフォンケーキを切り分けて二人のところに持っていく。
二人の会話は、近くにいるとも知らない藍沢ひなぎの話に移り変わっていた。気づかれていないとわかっていても、さすがにどきりとしてしまう。
「あ、そうだ」
注文の品を渡したところで、思い出したように茜は俺を見た。
「和花に言っておいてよ。すごい演奏だったって。あたし、なんか涙がこぼれてきちゃってさ」
「……たしかに、あれはすごかったよね」
「ほんとそれ!」
伝えておくと言って二人の傍から離れると、別で切り分けておいたシフォンケーキとレモネードをお盆に乗せてひなぎのいる個室に向かった。そろそろ甘いものがほしくなってくるのではないか、と思ったのだ。
ちょうど、ウィッグを着け直したひなぎが部屋から出てくるところだった。お盆の上の物を見て「気が利くね。ちょうどひと段落ついたところだったんだ」と嬉しそうにする。
「勉強の調子はどう? 苦戦しているところがあれば教えるけれど」
「え、すごい助かる。あんまり勉強は得意じゃないんだよね……」
ひなぎは遠い目をしている。勉強が得意ではないのは本当らしい。
「それなら、諦めて仕事に専念するってことにしてもよかったんじゃないの?」
「最終学歴中卒って、恥ずかしいから。だから通信だけど進学はしたわけだし」
言われて納得した。
「自分の進む道が決まってて、そのためレールを自分で敷いて進んでいけるってんなら仕事に専念したよ。でもさ、結局そのレールの敷き方っていうのは勉強や人付き合いを通じて学ぶことだったわけで、他人と関わるのを恐れて小中と過ごしてきた私はあんまり学べなかったわけで」
中学までのひなぎは、自分の本当の髪色が発覚することを恐れて髪を染めて同級生とはあまり関わらなかった。そのときのことを思い出して遠い目をしている。
「和花ちゃんみたいに天才ならよかったんだけど、私には土台無理な話だから。そのうち若くもなくなって仕事からドロップアウトさせられる可能性もなくないわけだし、そういうときに普通に生きられなきゃならないし」
「それもそうか」
カウンターに戻ってきたひなぎと会話を続ける。
「飾くんは高校卒業したらどうするの? やっぱり進学?」
「一応進学予定だけど」
「そっか。私も同じとこに行こうかなぁ」
「……が、頑張れ」
東京の大学のかなり偏差値が高いところに行こうとしていた、なんて今この場では言えなかった。具体的な大学名は伏せるけれど。