78.夜明けは遠く
「……ありがとう、ひなぎちゃん」
どうにか落ち着きを取り戻した和花ちゃんは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔で礼を言った。ティッシュを持ってきて、顔を拭ってあげる。和花ちゃんは大人しく拭き終わるのを待つ。
「……なにか隠しているとは思ってたんだよ」拭き終わると同時に、小さな声で言う。「まあ、兄さんは隠し事ばかりだから、ひとつや二つ増えたところで大差ないと思っていたんだけどね」
「飾くんが『舞奈』だってこと?」
「いや、それは違う。兄さんは最初から『舞奈』であることを隠していなかったよ。うちで気づいてなかったのはひなぎちゃんだけ」
「え」
寝耳に水だった。
そうか、和花ちゃんは最初からわかっていたのか。
そうじゃなくてね、と和花ちゃんは視線を落とす。
「……たぶんこの曲、元々は私への誕生日プレゼントだったんだと思う」
和花ちゃんはそう言うと、理解の追いつかない私を見つめ、微笑む。
「わからなくていいよ。なにもかも理解する必要はない。そうやって、負うべきでない心労を減らすことで、生きやすくなるんだから」
和花ちゃんは立ち上がる。
「行くよ」和花ちゃんは言った。「兄さんのところに行かなくちゃ。きっと、すべて見透かした榛名待ってる。……ああ! こんな腫れぼったい顔で出ていったら笑われちゃうぅ」
とかなんとか言って手鏡を取り出していた。
わけがわからない。
私は結局、和花ちゃんが顔を化粧で誤魔化し髪を整え終わるまで、私は立ち上がれなかった。
それほどまでに、和花ちゃんの言葉は衝撃的だった、のかもしれない。
促されて腕を引っ張られてようやく立ち上がると、そのまま引きずられるように防音室を出た。地下スタジオから一階へ上がる足が重たかった。リビングには和花ちゃんの予想通り、榛名ちゃんが小さな灯りをひとつつけて、ブラックコーヒーを飲みながらぼんやりとしていた。
こちらを見る。
「泣いてたでしょ」
「ううん、まったく。私ほど涙が似合わない女はいないよ」
「そですか。なら、そういうことにしておきます」
白々しく言う和花ちゃんを適当に流すと、榛名ちゃんはコップの中身を空にする。彼女は腕時計を見る。午前三時の半分はとっくに終わっている。
「……すべてが手遅れだとしても、飾さんのところに行きたいですか?」
榛名ちゃんは整った口調で言った。
「過去は現在と繋がっていますが、私たちは現在を書き換えていくなかで、いつかの今は遠ざかっていく。少し昔の出来事が受け入れられるようになるのは、距離が遠くなって客観視できるようになるからでもあるし、過去が色褪せて鮮明ではなくなるからでもあります。……でも、」
「そんなこと、わかってるよ。でも、今は今だ」
「……そっか。うん、じゃあちょっと待ってて。風邪ひかないように上着準備しててよ」
そう言うと榛名ちゃんはコップをことりと置いてリビングを出る。間もなく玄関の扉が開く音が聞こえてくる。
二人の会話の意味がすぐに理解できなかった。
「……どういう問答?」
「現実を受け止める覚悟があるかどうか、ってこと」
和花ちゃんはゆっくりと息を吐く。
「最悪の場合、兄さんが死んでるかもしれないから」
耳を疑う。
「そ、そんなこと、」
「ない、とは言えないでしょ。……兄さんの境遇を思えば」
まったく予想だにしていなかった言葉だった。
「もちろん、限りなくゼロに等しい可能性だということは私も榛名もわかっているよ。でも、ありえないと周りが決めつけるのはいけないことだから。もし、兄さんと同じ境遇を受けて必ず耐えられる人なら言ってもいいかもしれないけれど」
「……」
閉口する。
考えていなかった。
考えないようにしていた。
でも、一度言われてしまうと脳裏にこびりつく。
ありえない、と言うのは簡単だ。
妹を遺して自分の人生終わらせる、なんて飾くんは絶対にしないと思う。
「心が強くない人ならぽっきり折れちゃうよ、兄さんみたいな目に遭えば。だから、ありえないと思っていても想定しなきゃならない。兄さんはすごいけど、でも辛いことはちゃんと辛い。甘えた考えして甘え続けた結果が、兄さんを苦しめてたんだから」
「……そ、そう、だね」
ならば自分も、覚悟していなきゃならない、のかもしれない。
肩を抱く。
少し想像して、震えが止まらなくなった。
その私に、誰かが上着をかける。
「上着を準備しておいて、って言ったんですけどね」
榛名ちゃんだった。
「……これじゃあ、飾さんのひとり勝ちじゃないですか」
「……ぇ?」
「いえ、ひとり言です。さぁ、行きますよ。姉はもう準備万端ですから」
そう言われて、榛名ちゃんに手を引かれるまま家を出た。
足元を見て、転ばないようにしながら歩く。
いくら街灯があれど、月や星の明かりがあれど、まだ夜は明けていない。暗闇の不安に押しつぶされそうで、つい、そうしてしまう。
車に着くまで短い距離ではあったけれど、引っ張る榛名ちゃんにずっと甘えてしまった。
手を離した榛名ちゃんに背中を押され、そのまま車に乗る。私が奥に座ると、続いて乗ってきた和花ちゃんが隣に座った。榛名ちゃんは助手席へ、運転席にはつい先日榛名ちゃんのお姉さんだと知った唯さんが窓から外を眺めていた。
榛名ちゃんが『待ってて』と言ってからそう時間は経っていない。少なくとも、たとえ呼んでからすぐ車で出発したとしても、唯さんの家から柏木の家までは十分はかかる。それを考えると、私たちがこうなることを見越して、唯さんはここで待っていてくれた、ということだ。
……。
飾くんもだが、この家は尋常じゃなくおかしいのではないだろうか。
読みが長けているというか、行動予測の精度が高すぎる。和花ちゃんだって、自分の考えを正しく評価したうえで榛名ちゃんの行動を当てていた。
うん、おかしい。
いや、前からわかっていたのだけれど。
「入ってきたときは、お通夜みたいな空気出てたけれど」ふと後ろを振り返った唯さんが目を丸くしていた。「なにか立ち直る要因あった? そんなにわたしがここにいたの不思議?」
「そういうところです……」
わかってて言っているんじゃかろうか。
気持ちを落ち着かせるように長い呼吸をする。
ナーバスになりすぎだ。
「唯、そろそろ行かないと」
「へい」
榛名ちゃんの言葉で、唯さんは車を発進させる。
前の二人を眺める。
この姉妹は、あまり似ていない。
二人とも金髪だけれど、唯さんは少しくすんでいて榛名ちゃんは艶があって輝いているように感じる。どちらが劣っているわけではなく榛名ちゃんの髪は純粋な綺麗さがあって、唯さんの髪は味がある。私はどちらも好きだ。
顔立ちも唯さんは活発そうで、榛名ちゃんは眠たげ。
身長も、唯さんは女性のなかでは高めで、榛名ちゃんは低めだ。
似てはいない。が、姉妹とわかればそうとしか見えない。
二人の間には強固な絆があって、近くにいるとそれを強く感じる。
なんか、いい。
言葉がなくても通じ合える関係性が、なんだか羨ましい。
車のなかに流れる音楽に耳を傾けながら目を閉じる。身体を車のドアに預け、車の揺れを全身で感じ取ってみる。
今になってようやく理解する。
和花ちゃんの言っていた『誕生日プレゼント』という言葉の重みだ。
あまりに重すぎて、一聴では受け止めきれなかった。ゆっくりと咀嚼して、反芻してようやく、本当にようやく理解できた。
誕生日プレゼント、と言えば表現は軽い。
でも、もっと適当な言い換えがあることに気づいた。
要するに『遺品』なのだ。
柏木和花の誕生日を祝うために用意されたものは、音葉さんの死によって最期に和花ちゃんに遺されたものへと変わってしまった。
本来の意味からかけ離れ、和花ちゃんを縛りつける呪いのようなものへと化してしまった。
それをそのまま和花ちゃんに伝えるのは、音葉さんの本意ではないだろうし、飾くんの本意でもなかった。
だから、お蔵入りになっていた。
今和花ちゃんは、なにを思っているだろう。
枕にしていた右腕に涙を預け、今彼女がかかえる感情に思いを馳せる。
喜びも悲しみも、悔しさや無念さも、どれもが正しい感情で、どれも間違いではない。様々な感情が複雑に混ざりあって、気丈には振る舞っているけれど今も心は落ち着かないはずだ。
勝手に感情移入して泣いちゃうような私とは、やはり人生経験が違う。
どうか、どうか。
どうか報われてほしいな、と心底思う。
たくさん苦しんだのだから、報われなければ辛いだろう。
だから報われてほしい、そう和花ちゃんに思うたびに私の心は蝕まれる。
今ここにいない飾くんに対して、あまりに不義理なことをしていると理解しているから。
一番報われなければいけないのは、飾くんのはずなのに。
私は、ほんとうはどうすればよかったのだろう。
今もその答えは見つからない。




