77.アンサー
誇張ではなく、意識がなくなるまで歌った。
スタジオの床の冷たさで目が覚めたとき、すでに配信は切れていた。記憶は定かではなく、無意識で配信を切っていたのか、榛名ちゃんが気を利かせて切ってくれたのかわからない。
でも、こうなるまでがむしゃらに歌い続けていたのは事実だった。
生配信のアーカイブは残らない設定にしているが、おそらく誰かは配信を保存しているだろう。切り抜きも禁止にしていたから、大きく拡散されることはないだろうが、ひっそりと私の醜態を見られ続けるのだと思うとナーバスになる。
いや、それはいい。
スマホで時間を確認する。
午前三時を少し過ぎたところ。
飾くんからラインは送られてきて……いない。
あれほどぶっちゃけて、あれほどはっちゃけたのに。
届かなかったのだろうか、と不安になった。
私が動き始めて、和花ちゃんが目を覚ます。
概ね私と同じ動きをして、落胆の様子を見せた。
心のどこかで期待していた。
必死な頑張りは正当に評価され、それに対する報いは必ず得られるのだと信じていた。
だから、こうも落ち込んでしまう。
でもこれは、おそらく飾くんがずっと抱え込んできたものなのだろう。
ひそやかな頑張りをし続け、苦しくとも周りにはそれを隠し、あまり褒められず、あまり慰められず、それでも多くのことを私たちにもたらしてくれていた。
ある意味では、これが正しい報いなのかもしれない。
飾くんに負担ばかりを背負わせ、罪悪感を抱かないままのうのうと生きてきた私たちへの。
ゆっくりと湿った息を吐いた。
泣きそうだった。
伏し目がちだった眼が、ひとつの通知を捉える。
それはある動画が投稿されたことの通知だった。
「……ぇ?」
このタイミングで、と思って、掠れた声が漏れた。
それは『Minor』の投稿した新しい動画だった。
動画のタイトルで、まず目を疑った。
『シンセカイより feet.来栖音葉』
来栖音葉……来栖音葉、と書いてある。
音葉さんはすでに亡くなってしまっているはずで、蘇って歌を歌うことなんてできるわけがない。なら、この動画はいったいなんなのだろうか。サムネイルには、砂浜の綺麗な写真があるのみで、それだけで真相には辿り着けない。
和花ちゃんを呼ぶ。
彼女は息を飲んで、スリープ状態になっていたパソコンを立ち上げた。ケーブルでスタジオ内のモニタに繋いで、動画を再生する。
スピーカーが震える。
おそらく『シンセカイより』というのが曲名なのだろうが、流れ始めた音色は舞奈が私に書いたという『Along with』と同じ。
つまりは、『舞奈』が『Minor』で、『Along with』が『シンセカイより』だってこと?
短いイントロのなかでぐるぐると思考が回り続ける。
「……ぁ」
しかし、歌が流れ始めて思考が切り替わる。
「母さんだ……」
和花ちゃんが、湿った声を漏らす。
歌声は、間違いなく来栖音葉さんのものだ。
少しだけ、くすんだ色の青春を思い出す。
コンプレックスに塗れたかつての私を彩っていた歌声は、いま聴いてもまるで色褪せていない。それどころか、昔よりも鮮明に、一切濁らず心に届いているようにすら感じる。
なぜだろう。
少し考えて、すぐに気づく。
ああ、これは。
私の変化だ。
井の中の蛙だった私は、音葉さんを喪い、歌手になることを志した。その過程でたくさんのことを知り、たくさん傷つき、たくさん成長した。当然、ものの見方は変わり、昔は響かなかったものが心に響くようになった、というだけだ
そういえば、音葉さんの歌を聴くのはだいぶ久しぶりだ。
もしかすると、少し避けていたのかもしれない。
音葉さんの歌を聴けば、音葉さんのいない現実を直視してしまう気がしていた。
実際、そうだ。
今も喪失感が胸中を蠢いている。
でも、それ以上に、今はこの素晴らしい歌を聴けていることが嬉しかった。
おそらくは。
私に贈られる以前に、『Along with』は音葉さんの歌だったのだろう。
三年以上前に書かれ、音葉さんに歌われていたこの曲は、様々な事情が絡み合ってお蔵入りとなっていた。
紆余曲折あり、それが私に流れてきた。
いや、きっとそれは偶然ではなかったのだろう。
今ならわかる。
誰がこの歌を書いたのか。
「は、はは……」
とんでもないやつだ、と思わず笑いがこぼれてしまった。
歌、だけじゃない。流れる映像も、すべて『舞奈』が作ったものだろう。
ほんとうに、なんでもできる。
何もかも高水準で、胸を抉り、才能の差をまざまざと実感させてきやがる。
ふざけんな。
味方なんて思っていた自分が馬鹿馬鹿しかった。
味方なんて言葉ではあまりにも生ぬるい。
劇薬だ。
柏木飾、という存在は。
よくも悪くも、周囲を変化させる大きな力がある。
しかも、その自分の力を過大評価も過小評価もせず、正当な自己評価をしたうえで、その暴力的な才能を振るってこなかったわけだ。
周囲に与える影響が強すぎるから。
「なんて、」
言葉が詰まる。
なんて生きづらい人なのだろう、と思う。物事を理解する力が大きすぎるあまり、大きな制約を自らに課してしまう。
だからこうも美しく、悲しいものを作れてしまう。
美しい夢は理想にすぎず、現実はかくも厳しく無情であることを、それでもそれが素晴らしいのだと謳っている。
私に贈られた『Along with』よりも曲調が落ち着いていて、歌を通じて人々に伝わるメッセージがまるで違う。曲名が、feet.のその先を皮肉しているように感じるのも、故意なのだろう。歌っている人がすでにこの世から去っている事実が、いやに心にこびりついてくる。
「まだ生きているのでは」と期待してしまう。
「まだ生きていてほしい」と切望してしまう。
このどうしようもない喪失感こそが、別れの歌に相応しい感情に思えた。
歌のバックで流れる、繊細なタッチのアニメーション。
黒髪の少女が少しずつ背を伸ばしながら歩いていく。
成長と挫折、新たな出会い、そして別れ。
大きな喪失感を胸に前を向いて歩き続け、やがて終着点へ。
そこでは、ちいさな白猫が彼女を待ち受けていた。
足を止め、白猫の脇に手を入れ持ち上げる。
視点が変わった。
覗き込む、少し大人びた表情になった彼女は、ゆっくりと微笑む。
これは、間違いなく彼女の人生だ。
そして、最後に描かれていた白猫は、私。
そこで画面が暗転し、動画が終わる。
きっと私はたくさん託されたのだろう。
そう思うと、涙が少しだけこぼれる。
「……ぇ?」
スピーカーから音が再生しだして、画面を見る。動画がまだ、終わっていなかった。
ピアノのみのアウトロ。『Along with』にはなかった部分。
カメラのスイッチが入れられる。覗き込んでいた黒髪の少女が立ち上がる。背後にある砂浜と、そこに差し込む夕焼けが目に飛び込んでくる。
白波の音。
海鳥の鳴き声。
遠くを通り過ぎるバイクの音。
カメラを背に、少女は歩き始める。
感情を揺さぶっていたピアノの音色が、そこでぴたりと止まる。
そして、今度こそ動画が終わる。
ふと、『ああ、これで本当にお別れだ』と、思った。
彼女は、彼女ではない。
でも、私には、本物の来栖音葉に見えた。
それは隣にいた和花ちゃんも同じだったと思う。
私以上に二人を知る和花ちゃんだったからこそ、こみ上げてくるものは大きかったはずだ。
顔を両腕で抱えて、泣き声を必死に押し殺そうとしながら、それでも我慢できず。
「……和花ちゃん」
名前を呼んで、しゃくりあげる彼女の頭を腕で包み込む。
和花ちゃんは私に掴まりながら、何度も何度も「お母さん」と言った。やさしく頭を撫でながら、少し考える。
これはきっと、和花ちゃんへのアンサーソングなのだろう。
秘密を明かし、真実という刃を突き立て、心をぐちゃぐちゃにさせるものだ。
いつかは言わなければならない。
でも、言うのが怖い。
言って、傷つけてしまうのが怖い。
そう考える飾くんが絵に浮かぶ。こうなる未来が見えていたからこそ、これまで独りで抱え込んでいた。
でも言ってもらえれば、案外なんとかなる。
和花ちゃんは家族だったからさすがに辛かっただろうが、私は少し涙がこぼれちゃっただけで、和花ちゃんを慰める余力もあるぜ。だから、もっと気軽に言ってくれていいんだよ。
なんて、心では強がる。
そうでもしないと、どうにかなっちゃいそうだった。




