70.答え合わせ(2)
砂浜を出て、コンクリの地面のところに戻ってきた。足元の不安定さはここにはない。
そのまま波止場へと足を向ける。
規模の小さい漁港だ。ここで獲れた海産物は市内へも流通しているけれど、基本的にはこの漁港近辺で消費されている。
停泊している漁船も多くなく、小型の船舶ばかりだ。それを、さびしいとは思わない。なんというか、この小さくまとまった形がひとつの完成系のようにすら思えた。
波止場の先端に辿り着いて、海から吹き付ける風に目を細める。慣れ親しんだ潮の香りが、心地よかった。
慣れているとよい匂いのように感じるけれど、もしひなぎがこのにおいを嗅いだらどんな反応をするだろうか。
ちょうどいいタイミングがなくて、結局ひなぎをここに連れてくることはできなかった。
徒歩で来るには時間がかかる上、最寄りのバス停からも数キロ歩かなければならない立地だ。なら車を使えばいいのだけれど、母や妹の事故があって以降、自分は車に乗ることに拒否反応が出てしまう。
まあそれでも、連れてこようと本気で思えば策を講じることはできただろうが、そうまでして連れてくる必然性もなかったわけで。
「……でも、ここまで綺麗な景色が見られるなら、連れてきてあげてもよかったなぁ」
そう考えてももう遅い。
少し後ろにずれ込むかもしれないけれど、この週末も終わればひなぎは東京に帰ることになるだろう。
だから、もし次があればその機会に、だ。
次があればいいけれど。
もの思いに耽りながら、髪が風で揺れるのをたのしむ。
「……飾はどうして髪を伸ばしてるの?」いつの間にか隣に来ていた茜が透き通った声で言う。「昔は短かったよね」
彼女は視線で、揺れる髪を熱心に追いかけている。俺が自分の髪に意識を向けていて、それに釣られたのかもしれない。
「この髪は、俺の弱さの象徴だよ」
「え」
茜の驚いた声に、自分がとんと見当違いなことを答えたことに気づく。口をついて衝いて出てくるほど、染みついていた考えだった。
「ああ、ごめん。髪を伸ばしていた理由か」
「伸ばしていた……ってことはこれ以上伸ばさないんだ。ロングも似合いそうだけど」
「このぐらいが俺にはちょうどいいんだよ」
話しながら上手な説明を考える。
昔は自分の女顔を受け入れられなくて、髪はあまり伸ばしていなかった。それでも短髪の女子と思われがちだったから、無駄な抵抗だったわけで。それなら、いっそ伸ばしてみようと思ったタイミングが、母が事故に遭ったあとのこと。
ひなぎと出会ったから、というのもある。
彼女は自身のコンプレックスを隠すために髪を黒く染め、あまり目立たないようにしていた。
それに倣ったのだ。
自分のことで精一杯だから、周りが関わろうと思わなくなるような存在になろうとした。
髪を雑に伸ばし、前髪で目元も隠す。
猫背気味で、発声もぼそぼそと拙くする。
周りを欺くのは簡単だった。
欺き始める前は天才の子としてそれなりに期待されていたからこそ、落ちぶれたその姿を見るなりみんなは簡単に失望していった。
期待されるから失望されてしまうのだ。なら、いっそのこと期待されないくらいまで落ちぶれてしまえばいい。
成し遂げたことは同じでも、事前に期待されていたか、期待されていなかったかでは評価が異なる。頑張ってやったのに『このぐらいできて当然』と思われることがどれほどキツいことなのか、想像に難くないだろう。
期待されることが悪いわけではない。
期待されて頑張ることができる人もいるからだ。
でも、過剰な期待は相手を滅ぼす。
だから俺は自分の両手がいっぱいになった時点で、自ら相手を失望される選択をした。勝手に期待され、されたくもない失望をされるくらいなら、自分から望んで相手に失望されるほうが比較的マシだった。
「だから、適当に髪を伸ばした。身なりを整えないってのはね、怠惰の証明なんだよ。簡単に変われることなのに自分はそれをしません、ってアピールしているようなものだから」
髪を伸ばす前は、よくも悪くも優等生だったのだ。
期待を大きく向けられていた分、ちょっとしたことで大きく失望されることができた。
それが望んで行われていることだと、周りは露も思わなかっただろう。
「弱くなかったら、期待に応えながら起こり続ける問題を解決し続けられた。それができない人間だったことの証明なんだよなぁ、これ」
髪をわざとらしく揺らしながら言う。
茜たちとの関わりが増えたのを機に切り整えたからもうみすぼらしくはないけれど、伸ばし始めた理由はよいものではない。
「何もかも完璧にできるわけじゃないでしょ。飾でも、和花でも」
「それはそうなんだけどね。でも、和花なら求められる期待に応えられる。自分にはそんな力がなかった」
求められるものの本質が違うから、だろうけど、期待に応えられる実力がなかったのは事実だ。
だから『血縁ほど荷が重いものはそうそうない』と思っている。
父親が天才ではなかったら、妹が平凡な人だったら、自分は普通の天才だと正しく評価されたはずなのに。
もしくは、父や妹なんて関係ないと強かに振る舞えたら、どれだけ生きやすかっただろうか。
……いや、それは考えても無駄なことか。
父や妹がいなければ、もし今と同じ『柏木飾』という名前だったとしても、同じ人間ではなかった。
過去の蓄積が――これまで誰かと関わってきた経験が今の自分を形作っている以上、誰かがいなければ、なんてことを考える意味がないのだ。
「大事なことは、自分の弱さと向き合うことだった」
「……うん」
頷いた茜の表情をまっすぐ見る。
ひなぎが自身の白髪と向き合って、それを活用して歌手として成り上がったように。
自分も、強がってばかりではだめなのだ。
「弱いことが恰好悪いことじゃない。自分の弱さを受け入れられなかったことが恰好悪かった。なんでも完璧にできるわけがないんだから、辛ければ『辛い』って、助けてほしければ『助けて』って正直に言えればよかったんだ」
奥歯を噛みながら言う。
我慢しなければならない。
全部自分が悪かった──なんて、思い込むことで、他責にしないようにし続けてきた。
……でも、本心でそう思っていたわけがない。
「なんで、自分だけが……」
「……飾?」
「なんで自分だけが、こんな苦しいものばかり背負わなきゃならなかったんだろう……」
言ったところで過去はなにも変えられない。
今ここで、正直な感情を茜に吐露したとて、茜の心を傷つけるだけでよい結果にはならない。
でも、全部独りで背負い込んで、自分以外のみんなが背負うべきものも背負わずのうのうと生きて、自分だけが痛くて苦しいところを背負い続けている現状はおかしいのだ。
だから、みんなで傷つく選択をした。
それなら、今ここで茜に自らの本心を曝け出すことは必要な儀式だったのかもしれない。




