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7.喫茶『Lonely』

 バイトを始めたのは、従姉の唯さんがその店を立ち上げてすぐのことだった。


 唯さんは俺たちの親が多忙だった時期に保護者の代わりをしてくれていた人で、一時期柏木の家で一緒に暮らしていた時期があった。大学に進学するために一度浮花川を離れたのだけれど、大学を卒業して当然のように浮花川に帰ってくると町の中心部に喫茶店を開いた。俺が中学三年に上がった頃だから、おおよそ二年前のこと。


『飾、暇ならここでバイトしない?』


 そう提案されて、俺はすぐ首を縦に振った。

 自立しなければ、と考えていたからだ。働いてお金をもらって、人と関わるという社会的な営みを行うことによって精神的に成長できると思った。なにより、お金がなければ自立した生活なんてできやしない。


 ファミレスみたいに目が回りそうになるほど忙しいところは脳みそがエラーを起こしそうだったし、かといって人間関係が複雑になりそうな人の多い職場も向いていないだろう。


 コーヒーの匂いの染みついた喫茶店の落ち着いた雰囲気と、知り合いが経営しているという安心感。店の奥によく手入れされたアップライトピアノがあって、暇があれば自分で演奏したり、たまに和花や榛名が演奏したりしてくれるのもモチベーションに繋がる。


 だから唯さんの提案を断る理由はなかったし、提案されなくとも自分から働かせてくれと懇願していたに違いない。

 つまり、ここ喫茶『Lonely』は自分にとって理想の職場だった。


           *


「はへぇ、ここで飾くんはバイトしてるんだぁ」


 店に入っての第一声が、それだった。

 今をときめく人気歌手である藍沢ひなぎは、現在お忍びで浮花川に旅行に来ていた。正体が気づかれないように黒のウィッグで白髪を隠し、深い海のような色の瞳も眼鏡で誤魔化している。服装は昨日とは打って変わってパンジーのような初夏に似合うコーディネート。


 今日は元々ひなぎを連れて浮花川全体の案内をする予定だったのだけれど、一緒に着いてきたがった和花がここ数日の疲れから起きられなかったのだ。しょうがなく予定を変更することになったのだけれど、ひなぎは俺がバイトをしていることをどこかから(おそらく榛名から)聞きつけると、俺の働いている姿を見たがった。


 そんなものを見て何が面白いのだろう。ひとりになった瞬間にふと思ったのだけれど、俺とひなぎの立場を入れ替えると納得がいった。たしかに、ひなぎの仕事モードの姿は一度見てみたいと思った。それと似たようなものなのだろう。


「らっしゃい。ゆっくりしてって」


 俺たちを出迎えたくすんだ金髪の女性が、ひなぎの方を見て微笑む。ひなぎは少し緊張した面持ちで頭を下げた。


 この喫茶『Lonely』の店主である唯さんは、今年で二五になるのだけれどまだ大学生だと言われても違和感がない。血が繋がっているから当然なのだけれど、やっぱり妹と顔が似ている。


「珍しく土曜にシフト入れてないと思ったら女連れとは。やるときはやるんだ」

「……そういうわけじゃ。ひなぎだって、本来の目的は和花ですよ」

「ほんと? ああいや嘘ではないんだろうな。ありのままを話していないだけで」


 唯さんは見透かしたように言うと、「それじゃ、今日もよろしく」と何事もなかったみたいに仕事に戻っていく。こういうところも、すごく妹と似ていると思った。表情から人の内面を見て、分析する。急所に触れるような言葉は使うけれど、相手を傷つけることはない。そういうずるさが、ほんとうに似ている。


 俺はひなぎをカウンターに座らせて店の奥のバックヤードに向かうと、そこで自分のロッカーからエプロンを取り出して着ける。髪は家にいるときにポニテにしていたから、特にいじる必要もない。手を洗ってホールに戻る。


 喫茶『Lonely』は浮花川の一番太い通りにある路面店で、お昼の時間帯になるとそれなりにお客さんが来る。今の時刻は開店間もない十時過ぎだから、俺たち以外にフロントに人はいない。だから今は堂々と『ひなぎ』と呼べる。


「おお」


 バックヤードから現れた俺を見て、ひなぎは感嘆の声を漏らした。


「そんな感じなんだ。なんというか、すごい慣れている感じがある」

「ここで二年も働いていればさすがに慣れるでしょ。なにか注文はある?」

「あ、じゃあじゃあスマイルひとつ」

「五千円になります」

「高っ。ぼったくりだよっ」


 軽く受け流すと、ひなぎは少し唇を尖らせながらもメニューを見る。そしてミルクティーを頼むと、店内を見回した。俺は注文の通りミルクティーを淹れながらその様子を見守る。

 ひなぎの目についたのは、店の入り口正面の壁際にあるアップライトピアノだった。


「ピアノ置いてるんだ」

「ここに置いていると和花とか榛名が吸い寄せられてくるから」

「あはは、そんな理由なの?」

「いやまあ、実際は大した理由なんてないと思うけど」


 唯さんが昔から嗜んでいた趣味のひとつで、身内に弾ける人間が多いから置いているだけだろう。和花しかり榛名しかり、俺しかり。

 庶民にとってはなかなか手の出しづらい代物ではあるけれど、大学を卒業してまもなく喫茶店を開業できるほど資金力のある唯さんにとっては、まあそれでも高額なことには違いないが買うことに迷いはなかったらしい。


「あと、ここは夜にバーをやっているから、ピアノが置いてあると都合がいいんだよね。それは唯さんじゃなくて、ここのテナントオーナーが趣味としてやってるんだけど」

「なにそれ、すっごいお洒落」


 カウンターの真正面にある棚の戸がスライドするタイプになっていて、日中はコーヒー豆や茶葉などが、夜になるとウイスキーなどの酒の瓶がお客さんの前に姿を現す。だから、お洒落だというひなぎの意見には同感だ。


「はい、ミルクティー」

「ありがとう、飾くん」

「料金は気にしないでね。たまにはかっこつけないといけないから」


 和花や榛名が表舞台での活躍が多い反面、自分が頑張っているところをひなぎに見せられる場面は少ないように思う。そういう機会は大切にしておきたい。


 自分の淹れたミルクティーの反応は大袈裟なくらい上々。ひなぎのかわいらしさが数段増したように見える喜び方で、嬉しい反面少し恥ずかしい。後ろに唯さんが控えているわけだし。


 当の唯さんは済ました顔で自分の仕事をこなしていた。俺が自分用のコーヒーを淹れている間も、ひなぎとのやりとりにどんな反応をしてくるか身構えていたのに何も言ってこない。なんだこの肩透かし感。いや、まあ少しいじられることを期待していた気持ちもなくはなかったが。


 唯さんがひさしぶりに言葉を発したのは、そこから数十分経ったあとのことだった。ひなぎとの会話も煮詰まってきたところで、店内にもいくつかのグループの来店があった。その接客を終えてひと息ついたところで話しかけられる。


「飾。今日土曜日だけど、ひとりでなんとかなるよね」

「……? ええ、はい。普通にひとりで全然回せますけど」

「だよな」


 一瞬なにを言いたいのかわからなかったけれど、唯さんの手に財布などを入れたポーチがあるのを見て納得する。


「今日は戻らないんですか?」

「いや、戻っては来るよ。今日は律さん仕事忙しいみたいで、バーの方を任されてたんだ。飾が今日用事があるっていうから、いつ仮眠とろうか迷ってたんだけど」

「その節はどうも……すみません」

「気にしないでいいよ」ふにゃっとした笑みを唯さんは浮かべる。「どうせ和花が今日ダウンしてるんでしょ。一緒に観光したがってたからそこかしこを案内するわけにもいかず……その結果、バイト先に連れてきたってところかな」

「もう、なにからなにまでその通りですけど」


 否定のしようがなかった。


「まあ、任せてください。よっぽどのイレギュラーじゃない限りは問題ないはずですから」

「頼むね。あっそうだ。彼女に奥の部屋使っていいと言っといてよ。ウィッグを外せる場所があったほうが気持ちに余裕ができるよね。あと、飾たちが学校行ってて暇なときはいつでも来ていいっても」

「自分で言ったらどうです?」

「わたしはおいおい仲良くなってくからいいの」

「ああ、ただ単に予想以上に見た目が好みだったから緊張してるんですね」

「……そういう意味では、見るからに好かれてるお前がうらやましいよ。わたしも藍沢ひなぎから好かれたい、愛されたい」


 事実だったからか肯定も否定も返さず、逆に返事に困る言葉を返された。こちらも核心を突くようなことを言ったのだから、仕返しされても文句は言えない。

 お互いの残念さに苦笑し合って、唯さんは店を出ていった。

 カウンターにいたひなぎのところに向かうと、唯さんの言葉を伝える。ひなぎは喜ぶ反面、少し複雑そうにしている。


「仲良いよね。十も離れてないんでしょ」

「あの人は姉みたいなもんなんだけど。それにあの人既婚者だし」

「……それはそうだけど、なんかこう、私とは違う近い距離感というか」


 ひなぎは言い澱む。なにかつっかえるものがあるらしい。


「好きか嫌いかで言えば、死ぬほど好きだったけどね」

「え、は?」


 どう話せばよいか少し迷って、結局正直に話すことにした。なんだかそっちの方が面白い反応が見れそうだった。

 目論見通り、素っ頓狂な反応が返ってくる。間を置かずに続ける。


「母親が忙しかったから、一番頼りにしていたのは唯さんだったし。でも歳の差は覆せないし、そもそもそれが恋愛感情だったとは今は思えないし」


 幼心に抱いた感情は、きっと憧れだった。

 頭がよく才能があって、性格もよくてなおかつ美人だった姉のような従姉は、身近にいた太陽のような存在だった。


 だから憧れ、焦がれ、そして挫折させられた。


 俺が持っていないものを、唯さんが持っていたからだ。

 ……いや、どちらかと言えば逆かもしれない。


 どう足掻いてもなくならない『生きづらさ』を、俺が持っていた。

 唯さんが苦労なく普通に生きられる反面、俺は一生普通には生きられないのだと悟った。


 だから、彼女にはもう憧れないと決めた。

 未練があるから、こうやって彼女の喫茶店でバイトさせてもらっているのだろうが、とにかく当時ほどの感情は今の俺にはない。あってたまるか。


 心の中で自分を納得させるように呟いて、ひなぎに向き直る。

 ひなぎは心底複雑そうな表情で俺を見ていた。唇を尖らせて「……あぁ、これが嫉妬か」と呟いて、その考えをかき消すようにぶんぶんと首を振る。


「たしかに、今の私は頼りないかもしれませんが」

「え、はい」


 急に丁寧な言葉で話しかけられた。


「誠心誠意、なんとかしようと思いますので、どうかどうか長い目で見ていただければと存じます……」


 そのまましょぼくれて、カウンターに突っ伏した。

 なにも、ここまで目に見えて落胆しなくても。

 なんだか可笑しくて、笑っているのがばれないように顔をそむけた。



※2024/1/12

内容修正 唯さんのキャラクター付け変更による台詞の変更

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