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65.心の熱が冷めないうちに

 頬の熱がある程度治まったところで、朝食を食べていないことを思い出す。そう時間が経たないうちにお昼の時間になるけれど、朝食か昼食のどちらかを抜いてしまうのはよくあることだった。こんな中途半端な時間に食べても、なんだかんだ夜まで十分に活動できる。

 厨房を借り適当に朝食を作って、茜とあずさにもおやつ代わりになるものを作ってあげる。

 それを持っていくと、二人とも目を輝かせた。


「ひさしぶりの柏木の手料理!」


 特にあずさの喜びようには驚いた。

 彼女がここまで喜ぶ姿を、自分はあまり見たことがなかった。


「……そうなる気持ちはわかるけど、すごいうれしそうだね」


 茜が苦笑いする。あずさは、先ほどの自分の態度を少し恥ずかしがりつつ「だって東京にいると、柏木の料理なんて滅多に食べられないんだもの」と言った。


「そこまで喜ぶほどかよ」

「……柏木は、自分の手料理の価値もわからないようね」

「いつも食べてるからな」

「それがどれだけ贅沢なことかっ」


 あずさが勢い余って立ち上がる。が、すぐに自分の行動を省みて、ちょこんと座りなおす。


「ここの旅館、たまに柏木が厨房に立つそうね」

「極稀に、な」

「そういうことよ」

「……」


 なるほど、説得力のある発言だった。

 この檜葉旅館は知る人ぞ知る名旅館であり、天才画家である父の遺作とも呼べる場所だ。

 その旅館の厨房に立ってお客様に料理を振る舞えるほどの価値が、自分の料理にはあるということなのだ。

 今まであまり深くは考えないようにしていたけれど、なんというかここの女将である律さんがどれほど自分を評価しているのかが見えたような気がした。


「それで」フレンチトーストを頬張りながらあずさは言う。「さっき、忌憚のない意見がほしいって言っていたけれど、何に対して意見がほしいのよ」

「……忌憚ない意見?」


 あずさの言葉に、茜が首を傾げていた。

 先ほどの会話の内容をざっと茜に説明すると、そういう話だったのねと茜は小さく頷く。茜がちゃんと理解してくれたことに安心しながら話を続ける。


「この旅館って、グランドピアノが置いてあるんだよね」


 檜葉旅館には一般客はあまり出入りできない奥まった広間があって、そこに一台のグランドピアノが鎮座している。しかも、ちゃっかりスタインウェイのコンサートピアノ。正直、こんな地方の旅館にあっていい代物ではないのだけれど、それはまあいい。


「だからとりあえず、頭の中にある理想を引きずり出す作業を手伝ってほしい。正直、自分じゃ判断できなくて」

「……それって、私や茜に判断できることなの?」

「わからない。でもひとりでやるよりはマシじゃないかな」

「あたしには荷が重いんだけど……あずさはどうなの。音楽に詳しいの?」

「私もからっきし。昔から和花の作る音は聴いてきたけれど、さっぱり」


 そう言いながら見つめ合って笑う二人。

 ……この二人はいつの間に仲良くなったんだろう。

 そもそも、面識があることすらつい先ほどまで知らなかった。

 不思議に思ってじっと見つめていると、なにを考えているか察したらしい茜がくすりと笑う。


「だって、あずさってあたしの知らない飾のこと、たくさん知ってるでしょ」

「ま、交換条件ね。柏木兄妹の情報は、私にとっても有益なのよ」

「裏で勝手に俺の話をしないでくれ……」


 嘆いていると「じゃあ飾の前でするけどいい?」と茜が微笑む。それもやめろ、公開処刑なんてするな。

 あずさがそこで、声を出して笑った。


「あなたたち、本当に幼馴染みなのね」

「どういう意味だよ」「疑ってたのっ?」


 茜と声が被る。それが原因で、さらにあずさが笑ってしまう。

 いったい何が可笑しいのか、俺にはわからない。

 でも、あずさに釣られて茜も肩を震わせて笑い始めてしまった。こうなってしまったら、俺にはどうもできない。


 二人が笑っている間に朝食を食べ終えてしまう。

 二人のために作った軽食もいつの間にかなくなっており、俺が立ち上がると二人もそれに倣って立ち上がった。

 皿洗いは旅館の従業員さんがやってくれるらしい。少し申し訳なく思いながらも皿を渡して、場所を移動する。


 グランドピアノの置かれた広間は、少しだけ埃のにおいがした。

 三人で窓を開け、一度中の空気を入れ替える。

 昨日の雨はすでに止んでいた。まだ青空は見えないけれど、通り抜ける初夏の風が心地よい。

 音響的には閉じ切ってしまった方がいいのだけれど、まだ収録するつもりはないから、とりあえず今はこのままでいこう。


 椅子の高さを調整する必要はなかった。

 そのまま腰かけると、威圧感を放つ八十八の鍵盤を見つめる。

 正直こいつが敵か味方か、自分にはよくわからない。ピアニストそれぞれの価値観次第で、味方にも敵にもなりうるし、そもそも俺はピアニストではない。一生こいつと真剣に向き合わなければならないわけではないのだ。


 でも、今この瞬間は心強い相棒であり、簡単にそっぽ向いてしまう頼りない相棒でもある。

 それでいいさ。

 そのぐらいがちょうどいい。

 少しくらい不自由があった方が、成し遂げたときの達成感は強いはずだ。


 一度、広間の中央付近にいる二人を見た。

 あずさは集中するように目を閉じ、茜は緊張ぎみに体育座りをしている。

 それが少し可笑しくて、口角を上げながら天井を見上げる。


 正直、この状況で――母の秘密を暴露され、世界が騒ぎ立てているなかでこんな気持ちになっているのはあまりよくないことじゃないかと思ってしまう。

 残された和花もひなぎは大変だろう。

 すべての尻拭いをするために、心を削りながら頑張っているに違いない。


 それは、俺の選択の結果だ。

 俺はみんなで傷つくことを選んだ。


 みんなを傷つける必要はなかっただろ、という心の声はずっとうるさい。

 自分で背負わなければ、と自責の念は頭の奥でずっと響いている。


 でも、だからこそ、そんな雑音すら吹き飛ばすような音色を奏でたいと思った。

 和花ほど目立った活躍はしていないけれど、曲がりなりにも自分は表現者だ。

 和花に嫉妬されるような曲をひなぎに贈った『舞奈』なのだから、その罪深い行いを顧みず、さらに罪を深めよう。


 そうすることでしか――俺は自分を救えない。


           *


24/02/07 22:14

微修正:雨が止んでいる描写を追加

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