64.正直者にはなりきれない
飾視点
目が覚めたのは、一〇時を過ぎたころだった。
今日は金曜日だけれど、高校に行くつもりはさらさらない。そういうのは夕と笠原に任せておけばいい。
そういえば、ここまで遅く起きるのはひさしぶりだった。
どれだけ遅くまで作業をしていても、高校生だから平日はちゃんと授業があるし、たとえ授業がなくとも妹の世話はしなければならない。手がかかる妹だから、兄である自分がしっかりしていなければならないのだ。
その妹のそばを離れて、自分のことに没頭したせいかもしれない、この遅起きは。
進捗はあまり芳しくないけれど、完成形の輪郭がほんのりと見えている。
パズルのピースが上手く嵌まれば、そこまで時間がかからないはずだ。
寝ぼけまなこを擦りながら部屋の中を見渡す。すでに部屋に茜の姿はなかった。
思っていたよりも、自分の気持ちは茜に寄りかかっているのだろう。
茜がそばにいないというだけで、気分が少し暗くなる。
でもそうは言ってられない。
この状況下だから高校に行くつもりはないとはいえ、やらなければならないことは多い。お腹が鳴った。少し遅い時間だけれど、まずは朝餉を取らねば。
重い身体を引きずるようにして部屋を出る。旅館内にある食堂に向かうと、そこに見覚えのある姿があった。
「え」「おお」
気づいたタイミングが同じだったから、声が重なった。
ひなぎのマネージャーである姉と同様、理知的な瞳が特徴的な少女だ。
斎藤あずさだった。
彼女は食堂の隅のテーブルに腰掛け、コーヒーを飲んでいた。
「随分遅い目覚めね。昨晩はお楽しみだったようで」
「冗談ありがとう」
「……素直に感謝される方がむず痒いのだけれど」
彼女がむず痒くなるのを理解したうえで言っているから自分は性格が悪い。ただ、感謝をしているのも事実だった。変に深刻に思われたり腫れ物のように扱われたりするのは、逆に気が滅入る。
あずさは毒気が抜けたようにゆっくりと息を吐く。
そうなるのも無理はない。
俺とあずさの関係性はなんというかすべて微妙で、明確にこうだと言える言葉が見つからない。
ひなぎの──というか母の、来栖音葉にとって最後のマネージャーの妹で昔から面識はあった。そういえばひなぎは知らないかもしれない。自分のマネージャーが憧れの音葉さんのマネージャーだったことを。
それはともかく、あずさと俺は知人以上で友達未満なのだ。俺は彼女を『あずさ』と下の名前で呼ぶけれど、あずさが俺を頑なに苗字で呼ぶのは、友人ではないことの線引きなのかもしれない。ただまあ、お互い冗談言い合えるくらいの仲ではあるのだけれど。
「どうしてここに……って訊くのは愚問か。よくここだってわかったね」
「女の勘。というか、あなたがいざというときに身を寄せられる場所って、ここと来栖姉の家くらいしかないじゃない。それさえ知ってれば簡単なことよ。……もっとも、うちの姉はそんなこと知らないでしょうけどね」
「まあ、あの人は逆にね」
あずさの姉は俺や和花とも面識があるけれど、深い干渉はない。
歳が離れているからというのもあるし、かつての担当のお子さんだからと線を引いている節もある。
その代わりに、あずさが俺たち兄妹を担当させられているわけだが。
「もう。私はあなたのマネージャーってわけじゃないのだから、あまり走らせないで。一応好きで記者紛いなことはやっているけれど、別件で忙しいことは柏木もわかっているでしょ」
「全部俺のせいってことにしないで」
そうは言うけれど、すべての問題の遠因は自分にあるような気もする。少なくとも俺のせいではないと胸を張っては言えない。これはささやかな抵抗だった。
「じゃあ、その別件の話をしよう」
「ん」短く頷くと、あずさはコーヒーを飲み干して立ち上がる。「機材はあるの?」と、前後の話をばっさり切って訊かれた。
「諸々はある。というか、曲自体はもともとほとんど完成してるんだよ。最後に付け足すアウトロ用のピアノを録って、その分の映像も撮って終わり。簡単でしょ」
「簡単かどうかは私にはわからないわよ」
そもそも私は音楽やらないもの、とあずさは呟く。
「どちらかというと、その十数秒を録るのが難しいと思うけどね」
「それはそう」
同意する。
進捗が芳しくない理由はまさに今あずさが言ったことが原因だ。
自分で言うのもなんだが、もう今の段階で手を加えるのも難しいほど完成度が高い作品だった。曲も、映像も、下手に手を加えれば駄作に変わってしまいそうだった。
だからすでに完成しているところはそのままにすることにした。
後ろに、新たな解釈を付け足して、味付けを変える。
それだけで曲の解釈は、たくさん枝分かれするはずだ。
「だけどなぁ」
そう決めたはいいけれど、なにを付け足せばよいだろう。
元の作品の邪魔をせず、より高みへと導くために何ができるだろう。
昨晩のうちにいくつかパターンは出していたけれど、どれも元の作品のよさを濁らせてしまう気がしてならない。
どこかチープで、陳腐になって、作品の価値が数段落ちる。
今のところ、まだ天啓は降りていないというわけだった。
「撮影協力はしてもらうけど」少し悩みながら言う。「忌憚ない意見が欲しいんだ」
「……」
あずさは、驚いたように目を見開いていた。
「柏木が正直に打ち明けるなんて」
「……まあこれは、この三週間の成長だよ」
だんまりでは何も変わらない。
正直にならないと、と昔から思っていたけれど、ひなぎや茜が自分と真正面からぶつかってくれたから少しは正直になれたと思っている。
「ひなぎも、たぶん茜も『俺に何か返せているのか』って悩んでいる気がするんだけど、俺からすれば二人とも、俺にはもったいないくらいたくさんの物をくれたよ」
誰も彼もが、自分の意識していないところで周囲に影響を与え続けている。
誰かと関わることも、逆に誰かと関わらないことも、多かれ少なかれ周囲に影響を与えることなのだ。『バタフライエフェクト』という言葉があるように、一羽の蝶の羽ばたきすら、無視することはできない。
「それを本人に言えばいいのに」
「言えてたら苦労しない……」
「……と、言ってるけど」
あずさがすっと、俺の背後に視線を向けた。いやな予感がして振り返ると、そこには少し照れた様子の茜が、髪を弄りながらそっぽを向いている姿があった。
「あ、あたしはなにも聞いてないよ。うん、なにもっ」
声が上ずっている。
今の自分の発言を聞かれてしまったことは明白だった。
「……あぁあ、恥ずかしい……」
一気に、頬が熱くなっていく。
どうしてもう、茜やひなぎの前では正直になるのが恥ずかしいのだろう。
この感情の名前を、自分はまだ正確に付けることができていなかった。




