61.踊ろう
和花ちゃんの髪と身体を洗ってあげて、二人一緒に湯船に浸かる。
それまで無言のままだった。
空気が重たかったわけではない。どちらかというと、和花ちゃんが自分から話すタイミングを探しているようで、私はそれを待っていただけだった。
「――つめたっ」
浴室の天井から冷たい水滴が落ちてきて、思わず声が出た。和花ちゃんは飛び上がるようにして驚く私を一瞬きょとんと見て、すぐに堰を切ったように笑う。
「んもうっ、ひなぎちゃんったら、かわいいっ」
そのままにじり寄ってきて、頭を抱えられ撫でられる。服がない分、和花ちゃんの肌を直に感じる。柔らかくて、ボディソープのいい香りがする。
そのまま撫でまわされ、満足して離れた和花ちゃんを今度は手招きする。足と足の間に彼女の身体を挟んで、和花ちゃんの肩を抱える。そのまま彼女の顔の脇に自分の顔をうずめ、ゆっくりと息を吸う。
「……へんたいさんだなぁ」
「誰のせいだと思ってるの」
「うん、私のせいだね、にゃはは」
直接会ったときの和花ちゃんとの距離感は、いつもこんな感じだった。
和花ちゃんの距離感がおかしいのだ。
他人に興味をあまり抱かないから、仲良くなりたい人との距離感がわからない。
私と初めて会ったときも、三年ぐらい会っていない飼い主と再会した大型犬みたいに胸に飛び込んできて抱きつかれた。そのまま頬ずりされるわ、匂いは嗅がれるわ。
これが和花ちゃんではなかったらと思うとぞっとする。
和花ちゃんが不快感を与えてくるような存在でなかったから許されるけれど、大して親しくもない相手にこれをやったら大問題だ。
「和花ちゃんがかわいいからよかったけれど、私以外にこんなことやっちゃだめだよ」
「やるわけがないよ。私、女の子はひなぎちゃん一筋だもん」
と、恥ずかしげもなくさらりと言ってくれやがる。
かわいいけれど、先行きが不安になる。
和花ちゃんが誰かと結婚して幸せな家庭を築いている姿がまるで想像できない。いつまでも、兄である飾くんに面倒見てもらっている姿ばかりが思い浮かんでしまった。
「……まあ、余談はこのぐらいにして」
和花ちゃんは視線を傷痕の残る太ももに落とす。
「服を着ていれば目に入らないところばかりに傷が残ったのは、不幸中の幸いだったよ。誰かと会うたびに気の毒な目を向けられるのは、たぶん耐えられなかっただろうから」
「……」
その言葉には素直に頷けなかった。
「ま、でも女としちゃあ、ちと致命的だよね。セックスのたびにこれ見られるとしたら、相手は萎えちゃうだろうし」
「せっ、」
「ああ、私もまだ処女だよ。縁がなくてね、そういうのとは」
暗に私が純潔であることも強調された気がする。
そ、それはいい。
和花ちゃんの口から直接的な言葉が出てくるとは思っていなくて、激しく動揺してしまった。
「私もね、いい加減自立しなきゃ」
「……無理じゃない?」
「あっはは。いくら事実でも言っちゃいけないことだってあるんだよ」
事実であることは本人にも否定のしようがないらしい。
浮花川に来て見せつけられた和花ちゃんの生活力のなさは、もう筆舌しがたいものだった。和花ちゃんの一日は飾くんか榛名ちゃんに起こされて始まる。掃除や洗濯も二人任せで、もう本当に手がかかる子だった。
そういう意味では、事故に遭う前から女として致命的だったとも言える。
笑えないが。
「金を稼ぐ力と両親譲りのルックスだけはあるから、それで釣られてくれる兄さんみたいな人がいればいいんだけどな」
「そう都合よく飾くんみたいな人がいると思わないで……」
飾くんは、何人もいたら恐ろしいくらいの人材だ。
顔がよくて家事もできて料理も上手で、それにやさしいし、甘やかしてもくれる。ひとりで抱え込みがちなところが玉に瑕だが、それを除けば人生のパートナーにするには最高すぎる。
「ほんと、ひなぎちゃんが羨ましいよ。私がひなぎちゃんだったらさっさと押し倒して既成事実作って責任取らせるよ」
「あのねぇ……」
あまりに身も蓋もない言葉だった。
和花ちゃんの表情には、一切の照れもない。
本当にそう思っているらしい。
「正直、結婚するなら兄さんみたいな人がいい。恋愛的な意味で好きというわけではたぶんないんだろうけど、でも、もし神様が許してくれるなら兄さんと結婚したかった」
諦めの混じった乾いた声。
近親相姦が許されない理由を知っているから、和花ちゃんはそう言うのだろう。
「兄さんはこれまで私を一番に扱ってきたけれど、私たちが大人になればそうも言ってられなくなる。再来年になれば兄さんは大学進学のために上京するし、その次の年には私や榛名も。東京に母が仕事のときに使ってた邸宅があるから住む場所は探さなくていいけど」
「この家はどうするの?」
「さすがに売り払いはしないけど、兄さんが大学卒業するまでは少なくともほったらかしになるんじゃないかな。そのあと帰ってくるのかもわかんない」
あっけらかんと言う。
東京に一戸建てがあるのも驚きだが、それ以上に浮花川に戻らないかもしれないことに驚いてしまった。
「家にも土地にも愛着はあるけど、かといって一度上京しちゃうとわざわざ浮花川に戻ってくる理由がね。結局仕事する上では東京にいた方があらゆる面で都合いいし」
「それはその通りだけど」
「意外? ま、浮花川が好きだったのは父さんらしいからね。その父親の顔すらあんまり覚えてない私は、浮花川に対する執着は薄いのかもね」
そこまで言って、まあこれは蛇足かな、と独り言ちて和花ちゃんは首を振る。気持ちを切り替えるように咳払いすると、私から身体を離して向かい合うように座り直す。
「いつまでも面倒を見られてばかりじゃ、兄さんも榛名も自分のことに集中できないから。自分でやんなきゃなんないことは、自分でやらなきゃ」
それは、家事炊事に限った話でないことは明白だった。
「……私にも手伝わせて」
「うん、もちろんそのつもり。というか、これからやろうとしていることはひなぎちゃんがいなきゃ不可能なことだから」
ひなぎちゃんは膝の上でぎゅっと握りこぶしを作ると、私を見つめる。
「ほんとは、私がお願いすることだよ。……お願い、ひなぎちゃん。私に力を貸してください。自分のこともままならない人としてダメダメな私だけど、どうかお願いしますっ」
「あ、頭を下げないで」目尻に涙を溜めながら頭を下げる和花ちゃんをどうにか宥める。「むしろの私の方こそ」
和花ちゃんに倣って頭を下げる。
お願いするのは私の方だ。
そのまま頭を下げていると耐えきれなくなったのか「ぷっ」と噴き出して笑う。
「ははっ、二人して頭下げ合って変じゃん」
「……それもそうだね」
頭を上げると、和花ちゃんはすでにすっかり表情が明るくなっていた。別に笑わせたくてやったわけではなかったけれど、結果的に和花ちゃんの気持ちが楽になったのならよかった。
「それで、これからどうするの?」
正直なところ、今起こっている問題を解決する手段が私には想像つかない。
明かされてしまった来栖音葉との関係についての騒ぎを鎮静化させることがまずひとつ。
そして。
「飾くんも、たくさん傷つけちゃったし」
今回の騒ぎだけが原因というわけではない。音葉さんの亡くなった三年前からか、あるいはもっと以前から。
癒してあげる、というのはおこがましい。
私たちは私たちなりに、誠意を示すことしかできない。
それが二つ目。
「それがわかってるなら、やるべきことは明白じゃんか」和花ちゃんは私の考えていることを見通して笑う。「私は作曲家で、ひなぎちゃんは歌手なんだよ?」
言われてようやく気づく。
私にとって大事なことはなにをするのかではなく『何ができるのか』だ。
正直私は、何もかも十全にできるほど器用な人間ではないし、特別秀でた技術があるというわけでもない。
歌手の私にできるのは、歌うことだけなのだ。
「曲はすでにひとつできてるよね」
「……あ、私たちの新曲」
「そうそ。収録もおおむね終わってる。クオリティーも正直笑えるくらいすごい出来だ。――だけど、それだけじゃ足りない。一二〇点じゃダメだよ。一五〇点とか、二〇〇点を狙わないと」
そのぐらいじゃないと兄さんに顔向けできないよねぇ、と和花ちゃんは遠いところを見た。
今和花ちゃんがどれだけおかしいことを言っているのか、正直私にはよくわからない。
私はそれに従うだけだ。
「……粉骨砕身の覚悟でやる」
「おっ、その意気その意気」
和花ちゃんが調子よく手を叩いてくれた。
そしてぼそりと「……ま、これも兄さんの狙い通りなんだろうな」と呟く。
「えっ?」
「あ、聞こえてた? 兄さんってさ、未来が見えてるんじゃないかってぐらい先々のことを計算して生きてるんだよ。今回の件だって、たぶん兄さんが想定していた通りには進んでいるはずだよ」
「……えええ」
衝撃的な言葉に驚いていると、「とはいっても、おそらく最悪の想定……ってやつなんだろうけど」とさらに冷や水を浴びせてくる。
「最悪の想定だけれど、それでも求めた結果になるように私たちは誘導されているのかもしれない。……実際はどうだかわからないよ。本人に直接訊くわけにもいかないことだから」
「だとしても」
「うん。おかしいよね、異常だよね、うちの兄って」
凡人の頭には到底想像のつかないことをやっていることぐらいは、私にも理解できた。
「だからといって、私たちのやることは変わらない――私たちは盛大に、踊らされてあげよう」
踊らされる、か。
言い得て妙だった。
私たちは、糸で吊るされたマリオネットのように華麗に舞台の上を踊るのだ。
飾くんが望む未来のために。
「――そして、度肝を抜かせてあげよう。私たちの曲で世界を変えるよ」
和花ちゃんは真剣な表情で右手を差し出す。
言いなりにはなるけれど、兄の想定を遥かに超えるものを作ってやるという強い意志を、和花ちゃんは瞳の中で燃やしている。
……ああ、私の相棒は心強いな。
やれるだろうか。
いや、やるしかない。
和花ちゃんの差し出した右手を、私は両手で掴む。
――仰せのままに、お姫様。
そう、お道化て言うと、和花ちゃんは可笑しそうに肩を震わせて、「調子に乗るな」と左手の甲で私のおでこを叩いた。




