60.傷痕
通話が終わった後、私たちは靖彦さんの車で柏木の家に帰ってきた。
唯さんは私たちが家に帰るのを引き留めた。とりあえず今日は一泊させるつもりだったらしい。足が痛む和花ちゃんを見守るためでもあり、いろいろな出来事があった私たちの気持ちを落ち着けさせるためでもあったのだろう。そのつもりで、靖彦さんは和花ちゃんを自宅まで連れて帰ってきたのだろうが、二度手間をさせてしまった。
私たちには柏木の家に帰らないという選択肢はなかった。
唯さんの家でできることは多くない。
できることが少ないからこそ気持ちを落ち着けられる面もあるが、今はなにもできないことの方が辛かった。
「なんというか、兄さんが家を空けることは珍しくないんだけど……今日は特別さみしく感じちゃうな」
車椅子から降りた和花ちゃんが、榛名ちゃんの肩を借りて歩きながら言う。
見慣れた私物の少ないリビングではあったけれど、今日は一層寒々しい。
いかに柏木飾という人間が、この家にとって欠かせないパーツだったのか実感させられる。
「……っ」
俯いて、こぶしを握ることしかできなかった。
いなくなったわけじゃない。
もう帰ってこないわけでもないけれど、今はすごく飾くんとの距離があるように感じた。
あずさが言っていた。
『柏木はたぶん、ヒバにいると思う。桃川茜もきっとそこよ』
あずさの言うヒバというものが何かわからなくて問い返すと、『それはそのうちわかるわよ』とはぐらかされる。
『とりあえず私もヒバに行く。みんなが想像してるほど深刻な状況にはなっていないと思うけど、姉に状況も伝えないといけないから』
そう言ってあずさは通話を切った。
あずさの言葉が正しければ、茜は飾くんと一緒にいるらしい。
それはひとつ安心できる情報だった。
と、同時に言葉では言い表せないような不安もあったが。
「どしたの? 怖い顔してるよ」
和花ちゃんが私の顔を見上げる。どうやら心配をかけてしまったらしい。無理に固くなった表情を解きほぐすと、彼女の頭を撫でる。
「大丈夫。……それこそ、和花ちゃんの方こそ大丈夫なの? 足、まだ痛いんでしょ」
「あはは、まだ全然痛いよ。でも我慢できないほどじゃないから」
そう言って平気さをアピールするために榛名ちゃんから離れる。そして数歩痛みを確かめるようにゆっくり歩いて、二度頷く。
「うん、だいじょうぶ。無理に激しい動きをしなきゃ、これ以上酷くなることはないと思う」
にへらと笑う和花ちゃん。
榛名ちゃんは疑いのまなざしを向けていたけれど、私は和花ちゃんを信用することにした。
アウトラインから外れたら榛名ちゃんが見極めてくれるだろう。もしこれ以上はダメだと判断すれば、榛名ちゃんが彼女を止めてくれるはずだ。
「……それで、これからどうするの?」恐る恐る訊いてみる。「なにかはやらなきゃならないよね。でも……正直私はなにすればいいかわかってなくて」
「ひなぎちゃんはあまり気負わなくていいんだよ。責任は全部私が背負うから」
和花ちゃんの目に迷いはなかった。
様々なことを経験してきた目だ、と思う。全部兄に背負わせてきた、と当人は思っているかもしれないけれど、それはたぶん間違っているのだろう。
天才の子として、その期待を一身に背負ってきたのは飾くんではなく和花ちゃんだ。
ピアニストとして一等星のような輝きを幼い頃から見せ、ピアニストとしての表舞台からは身を引いても変わらず作曲家として一線で活躍し続けてきた。
期待を背負い、それに応えることで自分がどういう目で見られるか、理解したうえで道化を演じ続けてきたのだ。
それには相当な覚悟が必要だっただろう。
そして、飾くんにはできなかったことだ。
私からすれば、二人は適材適所していたにすぎない。
「よしっ」
考え事を遮るように、和花ちゃんは気合を入れた。「とりあえず、なにをするか決めたよっ」顔に笑顔を貼り付けて、元気な声音で言う。
「――お風呂に入ろうっ」
予想外の言葉に、私は思わず目を丸くしてしまった。
*
お風呂の準備を終えて和花ちゃんの部屋に向かうと、扉の向こうから「先に入ってて」と言われてしまった。怪我のこともあるから準備も大変だと思ったのだけれど、私に手伝わせるつもりはないらしい。
肩を竦めてお風呂に向かう。
洗面所でぱっと服を脱いで、浴室に入る。広い浴室に大きな浴槽。言い方は悪いけれど、金持ちの風呂だ。お湯の張られた浴槽に浸かる前に、身体や髪を満遍なく洗う。雨に当たったのだ、今日は特に念入りに。
鏡に映る自分の身体は見慣れたものだった。
食は細いわけではないけれど、あまり肉がつきやすい身体ではないらしい。腰は細くくびれ、胸もないわけではないが大きくはない。お尻も足も細いから、健康的な身体には見えないだろう。
逆に自分の顔から上は、今も見慣れない。
すっと目鼻立ち整った顔、真っ白な髪。
今もこれが自分のものなのか疑う瞬間がある。本当はもっと気品があって、スター性があって、この特別な容姿を輝かせられる人のものだったんじゃないかと思ってしまう。
昔の弱い私には、髪を染めて顔を隠すことしかできなかった。
私の人生を変えてくれたみんながいてくれたから今輝けているのであって、私は、私ひとりでは決して輝くことができないのだ。
全身を洗い終えたところで、ふと背後に気配を感じた。
浴室の外、脱衣所から服を脱ぐ掠れた音が聞こえた。アクリルの扉一枚を隔てた向こう側に、きっと和花ちゃんがいるのだろう。
そういえば、和花ちゃんと一緒にお風呂に入るのは初めてだった。
何度か誘ったことはある。
同じ釜の飯を食らうのと同じぐらい、同じ釜の風呂に入るのは親睦を深められる。交友関係を深める上で、身にまとう布切れが意外と距離を生むのだ。一糸まとわない姿になって、身も心も裸になって語らうことで仲が深まるのは、たぶん男でも女でも関係ないのだろう。……私はまだ処女だけど。
でも、和花ちゃんはこれまでその誘いに乗ることはなかった。
一緒にお風呂に入りたくない理由があることは察していた。
その理由は、少し頭が回れば気づけることでもあった。
なのに、今の今まで気づけなかった。
浴室に入ってきた和花ちゃんは、少し恥ずかしそうに肩を両腕で抱いていた。
「……あんまりまじまじ見ないで……はずかしいっ」
乙女らしい演技、だけれど、私の視線は別のところに釘付けだった。
和花ちゃんの身体は、大きな傷跡だらけだった。
背中や脇腹、お尻から太ももにかけて無数の傷痕と縫合の跡が一瞬では数えきれないくらいあったのだ。
ああこれが、和花ちゃんが一緒にお風呂に入りたがらなかった理由だ。
見ているだけで痛々しい、女としては致命的なぼろぼろの身体。
歩けなくなるかもしれないと医者に言われた事故の生々しい傷痕が、彼女の身体には広がっていた。




