6.天才
「……そろそろですね」
会話がひと段落ついたところで、榛名がテレビのリモコンに手をかけた。ちょうど片づけも終わったところなので、ミルクティーを淹れて二人のところに持っていく。榛名は黒猫のマグで、ひなぎには来客用のマグを渡した。一か月もいるのだから、後でひなぎようのマグカップも買ってあげようと考えていると。
「あ、おいしっ」
ひなぎがマグを持っていない左手をほっぺたに当てる。榛名がそれを見て、かすかに口角を上げた。
「この人、喫茶店でバイトしてるので茶葉からこだわっているんですよ」
「え、そうなの? 行ってみたいっ」
「あとで案内したげるから」
褒められるのがこそばゆくて、榛名がつけたテレビのほうを向く。最近のテレビというものはなかなかに高性能で、ユーチューブなどの動画配信サービスがボタンひとつで見られるようになっている。ひと昔前なら想像もつかなかったことだけれど、人々のニーズによっていろいろと移り変わっていくことに感心させられた。
榛名はリモコンを操作して、先ほど投稿されたばかりの動画を流しはじめる。その投稿者が誰かわかると、ひなぎは「あっ」と声を出した。
「……和花ちゃんだ」
動画のタイトルは『Along with/藍沢ひなぎ【Piano Cover】』。
黒光りするスタインウェイのグランドピアノの前に座る小柄な少女。艶のある黒髪を無造作に垂らして、見る人が見れば時間も忘れて収録していたことが察せられる姿。無地の白色のTシャツにグレーのハーフパンツ、そこから見える素足。画角の外にあるから基本は映らないけれど、身体が前傾したタイミングでかすかに顔の輪郭が見える。
これが妹のいつもの動画のスタイルだった。
だが、今日はいつもとは明らかに異なる気だ。
それは演奏が始まる前の刹那、白鍵をなぞる細い指先の動きだけでわかった。ピアノに寄せられたマイクが拾った何かが擦れるような息遣いも、すべてがいつもとは緊張感が別格だった。
しかし、始まりの音をピアノが奏でてしまえば、あとはもう止まれない。一音聴いただけで、これが特別な音楽なのだとはっきりわかった。表現力の幅が、明らかに違う。一五歳の少女とは思えない演奏の色気に、これが自分の妹だなんてことはもう完全に忘れて魅了されていた。
鼓膜を震わす音色から、小さな白鯨の姿が見えた。海で溺れていた自分を大きな拾い上げると、そのまま深海へと連れていかれる。白鯨は助けたつもりだったのだろう、しかし深海で人は生きられない。白鯨の腹の中で、抵抗することすらやめて、静かに眠るようにBメロが終わっていく。
そこで、現実に引き戻された。サビの高音部が心臓に突き刺さって、一瞬呼吸ができなくなったのだ。見えていた景色はなんだったのだろうか。答えを求めるように二人を見ると、自分だけそれが見えていたわけではないのだと気づいた。
ひなぎは胸のところでTシャツを強く握りしめて、画面を凝視していた。あのいつも飄々としている榛名でさえ、なにかに堪えるように歯を食いしばっていた。
動画が終わってしばらくの間、余韻があまりにも長引いて会話が一切できなかったほどだった。
「……ぅわぁ。これって、ほんとうに私の曲……?」
ひなぎは、自分の手元から自らの曲が離れていってしまったように感じたのだろう。
その気持ちはわからなくもなかった。自分だって『Along with』は好きで何度も繰り返し聴いた。だから目を閉じ、音の世界に身を投じれば、ひなぎの歌声や原曲の音色がいつだって頭の中で再生できた。
それなのに今は、先ほど聴いた音楽ばかりをなぞって、元の曲が思い出せない。そこにあるものをすべて吹き飛ばして、傷痕を深く残して、過ぎ去っていってしまった。
「……ほんと、これだから天才は」
その榛名の言葉に、声は出なかったけれど心の中で大きく頷いた。
普通、たった一日でここまでのクオリティーに仕上げられるのか? どれほどの執念でピアノに向き合った? そこまで自分はなにかに熱中したことはあるのか?
心の中でいくつもの問いかけが浮かぶ。
格の違いを見せつけられたみたいだった。
妹は、柏木和花という名前は幼少期から有名だった。父が若くして死んだ天才画家で、その子供がピアノのコンクールに出ては入賞をかっさらっていくとなれば、メディアからは否応なく注目される。次代を担う天才ピアニストという評価も決して的外れではなかっただろう。
しかし、中学に入学するのを機にコンクールへの出場はなくなり、代わりに柏木和花という名前は一切出さず『カズネ』という名義で作曲活動を始める。大々的にカズネの名前が売れたのはひなぎに楽曲提供をしたときだったが、業界の人やコアな音楽ファンにはその作曲技術が高く評価され、CMやアニメ、ドラマなどのタイアップ曲もすでに何本も手掛けていた。
本名で動画投稿を始めたのは、去年の夏ごろからだった。ちょうど大怪我から復帰したばかりのころで、所謂リハビリの一環だった。主に流行りの邦楽や古き良き洋楽のピアノカバー動画、ときどき生配信。カズネであることを隠したまま活動しているが、本名での知名度もかなり高く演奏技術に関しても折り紙つき、顔を出して配信はしていないが過去の活動ですでに顔も割れている。兄の贔屓目抜きにしても、両親譲りのルックスもあって顔がいいのだ。だからすでに登録者が三〇万人を超えた人気チャンネルになっていた。
ただ、最近はあまり動画を出していなかった。
ひなぎのアルバムに収録するための新曲を、完成できていなかったからだ。怪我から復帰した後、色々と全力で取り組み過ぎたからだろう。
自分の怪我は問題ないと周りにアピールしたかったというのもあるだろうし、入院中の作業の遅れを取り戻そうと躍起になっていた。
勢いよく滾らせた炎は心の燃料を食らいつくして、そして完全に鎮火してしまった。
初めてのスランプだったから、そこからどう立ち直るのかわからなかったに違いない。
気丈には振舞っていたけれど、明らかに無理をしていた。高校受験も終えて、ちょうど時間ができたのになんにも進まない。そのまま時間が過ぎ去って無事高校に入学して、それでも結局スランプから立ち上がっていなかった。
だから、ひなぎの新曲は劇薬だった。
言い方は悪いが、『歌でひなぎを寝取った』という言葉が、ほんとうにそのまま包み隠していない真実なのだ。
これ以上ない炎上の種を和花に投下して生まれたのがこの動画で、妹のひなぎに対する思いと、スランプのときの苦しみと、それを経た現在の精一杯。自分の手元から離れていってしまった相棒への、不器用なラブレター、なのかもしれない。
当人はそんなつもりはないようだが。
ひなぎは無言でリモコンを操作すると、頭から同じ動画を再生しなおす。気になるところがあれば動画を数秒巻き戻して繰り返し確認している。
顎に手を当てて「Aメロのここって、元々のよりわざと半音下げてるよね。なんでだろ?」と榛名に聞いていた。「……たぶん、元のメロディーだと、和花には明るかったんだと思います」と、返答。二人して動画の考察に夢中になっていた。
これだから、音楽バカは。
肩を竦めて二人の傍から離れた。二人は気づいていないだろうけれど、地下のスタジオから満身創痍の足音で階段を上ってくる音が聞こえたのだ。夕飯を温め始める。
「お腹空いた……」
間もなく、寝ぼけた様子でTシャツの間からお腹を掻きながら、妹がやってきた。たぶん収録した動画をエンコードしている間うつらうつらとしていたのだろう。瞼が重たく、声も少ししゃがれている。
「……んぅ、おいしそうなにおいする」
リビングで話していた二人には気づいておらず、とたとたと匂いにつられて近づいてきた。鍋の中を覗き込んで「ごちそうだ、どしたの珍しい」と俺を見上げる。
どう返せばいいのか逡巡していると「あ~、今日は榛名ちゃんのおゆはんだね。おだしの使い方が、兄さんとちょっと違うんだよなぁ」とだらしない顔。その姿を見て、ひなぎは固まっていた。
ああ、仕事のときの姿とのギャップに困惑しているのだろう。
プライベートでも何度か会ったことがあるようだが、いかんせん東京と浮花川とでは日常的に会うには遠すぎる。和花の性格はある程度把握しているだろうが、ここまでふにゃふにゃな姿は見慣れていないのかもしれない。
まったく、ほんとうに手のかかる二人だ。
溜め息をひとつついて、妹のおでこをぴしりと叩く。
「いたっ。なにすんの」
「目ぇ覚ませよ」
「なに言ってんの。私はずっと覚醒していましたわよ」
「それならいいけど。お前が来ない間におゆはん冷めちゃったから、今あっためてんの。リビングで待ってて。ちょっと騒がしいかもしれないけれど」
「ん? わかった」
状況をうまく理解できていないようだが、素直に頷いてキッチンから離れていく。ぽわぽわとした足取りで、どこともつかない場所を眺めながらリビングに向かう。
そこで、テレビから流れる音に意識が向いたらしい。
先ほど自分が収録して、投稿したばかりの動画だ。なんでこれが流れているんだ、と言わんばかりにソファーに座っている人物に抗議の視線を向け、そこでいつもとは違う顔ぶれが座っていることに気づいたようだった。
「……うん?」
夢でも見ていると思ったらしい。
手の甲で目をぐしぐしとこすって、一回壁掛け時計を見つめて、もう一度テレビを見て。
でも、状況は変わらない。
「……えと、何してるの?」
「か、鑑賞会かな」
「やめてよ、恥ずかしい」
「やだよ。私の曲をどんな風に聴いてたのか、気になるんだもん。もう五回はリピートしたよ」
「……恥ずかしいからやめてよぅ」
顔を腕で押さえて、ソファーに座るひなぎの隣に腰かけた。
そのままうずくまって、動かなくなった。ひなぎは困ったように苦笑いする。
「あぁもう。そこまで自分を追い込んでたんだね……ほらほら、ひなぎちゃんはここにいますよ」
「誰よぉ……舞奈ってぇ」
「ふふ、その話題はさっきもしたって。私もわからないんだもん、というか舞奈が誰かって私は興味ないもん。私の相棒は和花ちゃんだけ……というか、まだ私自身が和花ちゃんに相応しいとは思えてないんだけど」
「うぅう。気分的には途中まで磨いていたダイヤの原石を、道具が故障している間にほかの人に完璧に磨かれちゃった感じ……。なんか、遠くなったように感じるよ、ひなぎちゃんが」
「たまにするよね、そういう比喩」
寝起きでぐずる妹をあやしながら、それでも少し幸せそうだった。
ほんとうに手がかかる。だからこそ、手を貸してあげることが正解なのかわからなくなる。
立ち上がり方を忘れたときに、自分自身で思い出すのと誰かの手を借りて立ち上がるのとでは、また同じ状況に陥った際の対処に差が出る。
だから極力困難に対しては自分で対処させるようにするし、こういう荒療治は滅多にしない。
ひなぎに訊きたかったことがあった。
歌手としての高みに上り詰めて、ここからが本番なのだ。
歌手になる前からたくさん苦労してきて、歌手になってからもたくさんの苦労と努力を重ねてきて、それなのにまだまだ人生は長くて、ゴールは遠い。
新たな境地に辿り着いて、なにが見えたのか。
……後悔はしていないのか。
電車から降りてきたときにはそのことを訊こうとしていた。
でも、もうそれを訊くことは野暮だった。
後悔もたくさんしたしこれからもするだろう。
しかしそれ以上に、今が幸せそうに見えた。
これ以上ない友人ができて、自分のやりたいことができて、憧れの人と同じ舞台に立っている。
なら、何も言うまい。
……いや、さすがに『舞奈』は自分だって、言うべきか。
ひなぎのマネージャーに音源を送った目的はいろいろあるけれど、ひとつは和花のスランプを強引に解くため。もうひとつはひなぎに対するプレゼント……になるだろうか。
この曲は自分にとっても特別で、忘れられなかった。
だからちょっとした供養と妹への発破のつもりで送ったのだけれど、思っていた以上に効果があったらしい。
だから余計に言い出すタイミングがわからなくなってしまった。
ほかにも言わなければならないことがたくさんある。期をうかがって全部伝えなければ。
ひっそりと決心しながら和花の夕食を配膳していると、榛名が肩を竦めて見つめてきた。
やっぱり、全部気づいているらしい。
心の中を見透かされたようで、背筋に冷たい汗が流れる。
でも榛名は、何も口出しするつもりはないようだった。
それが榛名なりのやさしさで、だからこそずるいと思う。
でも、悔しいけれどしょうがない。
これは自分の問題で、榛名には関係のない話なのだ。
今回だけはそのやさしさに甘えて、これからすべての責任は自分で負わなければならない。