57.傷ついて
「風邪ひくよ」
雨に打たれる私たちに声をかけてきたのは、くすんだ金髪の女性だった。
紺色の傘を差したその女性は、柔和な顔を私たちに向けている。
唯さんだった。
飾くんのバイト先である喫茶『Lonely』の店主で、和花ちゃんや飾くんの親戚でもある。
「うち、近いからついてきなよ。さすがにこのまま放置するのは気に病むから」
有無を言わせないような表情だった。
すぐに私たちを一瞥することもなく歩き出した唯さんの背中を追って歩く。彼女の言葉通り、家はすぐ近くにあった。彼女の喫茶店からもほど近いところ。飾くんの家ほどではないけれど、唯さんの家もかなり立派な家だった。
「入って。タオル持ってくるから」
急いだように靴の向きを整えないまま、唯さんは家の奥に消えていく。複雑な心境のまま、私たちは顔を見合わせることしかできなかった。
そのあと唯さんの持ってきたタオルで濡れた身体を拭いてから家の中へ。濡れた服のままでいるわけにもいかず、私たちはそれぞれ唯さんが用意してくれた服に着替えると、身体を温めるためか暖房のつけられたリビングに集まる。
空気は重かった。
やさしくされるのは、こういうとき少しだけ胸が痛い。肺に穴でも開いたみたいだった。
結局私は、飾くんをたくさん苦しめてしまったのに。
やさしくされる権利なんて私にあるのか、わからなくなる。
「……私、どうすればよかったのかな」
隣に座って高い天井を見上げていた笠原さんに訊いてみた。彼女はゆっくりと首を振る。
「どうすればよかったか、なんてないのよ、きっと。みんなそのときの精一杯をやっていているんだから。過去を悔いたところで足踏みするだけ」
「燈子、そう酷いこと言ってやるなよ。自分だって無力感抱えてるくせに」
「夕だって、無力でしょ」
「さすがに『無力』までじゃねぇよ、無力感はあるけどな」
痛みを紛らわすように二人は軽口を言い合う。いい関係だなぁ、傍から見ていてもお似合いで少し羨ましい。
なら、私と飾くんの関係はどうだっただろうか。
二人ほどお似合いだったかというと、少し違う。
私たちは対等な友人では決してなかったし、どちらかというと私から一方的な矢印が向かっていただけのような関係にも思える。飾くんは迷惑にしていたわけではなかったと信じているが、今はもう不安で仕方がない。
私はなにも飾くんにお返しできていないから。
落ち込む私を見て進藤くんは大きく息を吐くと、「あまり俺は口出ししちゃいけないと思っていたけどな」前置きしてから話し始める。
「そもそも、歌手なんて誰かに力を分け与える仕事なわけだろ。なにも返せてないって思ってるんだろうけど、実際はちゃんと飾も藍沢さんから何かもらってるはずだぞ」
「……え」
「ああ、心を読んだとか言うなよ。飾のそばにいると表情見る癖がつくんだよ、あいつ俺らの顔じっと見つめてくるから」
言い訳するような続きの言葉は、あまり耳に入ってこなかった。
たしかに歌手は、歌を通して人々にいろんなものを届けている。私のSNSにも、『励まされた』、『感動した』というようなメッセージは数え切れられないほど届いている。
でもそれが、まだ自分に向けられたものだという自覚がなかった。
ただ、来栖音葉のファンとして、彼女の亡霊を追いかけてがむしゃらに歌い続けていただけだ。
ファンのために向けて歌った歌、というものが私にはない。
私には、歌手になった自覚が足りていない。
「……どうせ私の歌なんて容姿の二の次だったんじゃ」
「あのなぁ……そんなわけないっての。そりゃ、最初はすんげぇ人がいるなって思って藍沢さんを知った人がほとんどだと思うが、それだけならここまで藍沢さんは売れなかっただろうよ。だから、藍沢さんは立派な歌手だったんだよ」
「……っ」
進藤くんの言葉が胸に響く。
努力は無駄ではなかった。
「まして、藍沢さんの歌は正直飾に向けられたものばかりだったじゃん」
「う」
もう少しで泣いてしまいそうだったところに、変な言葉を投げられる。
「ファンに対してほとんど歌っていなかったのに多くのファンを感動させてんだから、まっすぐ愛を伝えられた飾はもっといろんなものをもらってるはずだよ」
「……やめて、愛とか言わないで」
「じゃあ、熱烈なラブコール?」
「もっと悪化させないでっ」
そこまでわかりやすかっただろうか。いや別に飾くんへの愛をこめていたわけではないけれど、飾くんを想って歌っていたのは事実だから恥ずかしくてたまらない。
でも、それなら。
飾くんになにも伝わっていないわけがない。
おそらく私が抱える慕情を、飾くんは私と再会する以前から察していたはずだ。
飾くんに対する深い感謝も、ちゃんとした歌を届けるためにしてきた努力も。
歌がすべて飾くんに届けてくれた。
誰よりも察しのいい飾くんなら、おそらくまったく劣化することのない感情を受け取ってくれたはずだ。
少なくとも何も与えられていなかったわけではない。
「……それって、迷惑じゃなかったかな」
「迷惑なわけがない。むしろ、藍沢ひなぎにここまで想われているあいつが羨ましいよ」
「私、そこまでいい人間じゃないよ」
「誰かのために頑張れる人がいい人間じゃなかったら、この世はみんな悪いやつばかりだよ」
進藤くんは気障っぽく言って恰好つけるが、隣にいた笠原さんにわき腹を小突かれていた。
「ノーチャンスだから」
「わぁってるって、というか友達を好きな女子を口説くかよ」
「本当に好きな子ならやるでしょ、夕は」
「そうだけどな」
当然というような表情をする進藤くんの脛を、笠原さんが蹴る。痛そうに悶絶する彼を、笠原さんはごみを見るような目で見下ろしていた。
「ひなぎは気負いすぎなの」
ぽーっと二人を眺めていたら、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには手に湯気のたつマグカップを持った唯さんが立っていた。
手渡されたそれの中身はホットミルクだった。飲んでと言わんばかりに見つめてくるのでひと口飲むと、はちみつが入っているらしくやさしい甘さがあった。
「そりゃあ、助けてもらった恩人の方が辛い境遇だった……なんて、辛いのはわかるよ。飾の人柄を知ってると余計にね」
「……はい」
「でも、あのとき飾とひなぎが出会わなければ、飾はもっとひどかったと思う。飾の言葉でひなぎがちゃんと前を向いて歩きだすことができたから、それを見て飾は少し安心できたんだよ」
唯さんはやさしく笑うと、私の頭を撫でる。少しくすぐったい。
「いい? 誰かを傷つけないことが正しいわけではないんだよ。人と付き合ううえで誰かを傷つけてしまうことも、傷つけられてしまうことも必ず起こることなんだ。だってそうでしょ、みんな同じ人間なわけじゃないんだから」
当然のことだった。
でも、その当然をあまり人は理解していないのかもしれない。
誰かを傷つけないために努力をすることはいいことだけれど、とはいえさすがに限度がある。誰も傷つけない、なんてことが土台無理なことだ。
「でも、誰かひとりが、独りですべてを背負って傷ついて、苦しんで、泣いて、それを隠すために無理に笑って。それが健全な状態なわけがないんだ」
あまりに重い言葉だった。
それが誰かは言うまでもない。
「姉代わりとしては、飾にもちゃんと幸せになってほしい。だからそのためにも――みんなで傷ついて、苦しんで、泣いて、すべてを清算しなければならない。
だから、苦しいならちゃんと苦しんで、泣きたきゃ泣きなさい。すべてが終わった未来に後悔を残さないためにも、ね?」




