55.死ねない
茜が涼むと言って部屋を出ていってからどれほどの時間が経っただろうか。ひとりでぼんやり音楽を聴いていても心が安らぐことはなく、茜がそばにいてくれただけで随分救われていたんだな、と自覚する。
三年前、茜がいなかったときはどうやって乗り切ったんだっけ?
その記憶がぽっかりと抜け落ちている。
これまではあまり思わなかったけれど、和花の事故と同じくらい三年前も深刻な状況だったのかもしれない。
正直なことを言えば、ひとりでなんでもできると思っていた。
もちろん、それが思い上がりであることは重々承知している。実際には自分の気づかないところで周囲が手を貸してくれていることもあるし、人は助け合わなければ生きていけない。
でも、ひとりで何もかも背負わなければならない状況が続いていたし、三年前の出来事がきっかけで誰かを頼ることへの恐怖心が強くなったのも事実だった。
茜が悪いとは思わない、これっぽっちも。
ただ、それでもひとりでなんでもできると思わなければ、やっていられなかった。
茜に対しては悪いことをしてしまったと思う。
自分がもっと器用ならお互いこんなに傷つく必要はなかった。
背負う必要のない罪を押し付けてしまったのは、紛れもなく自分だ。
「……ああ、泣けてきた」
目頭を押さえて洟をすする。
あまりに情けない。
やれることが大体終わり、我慢する必要がなくなってしまったからかもしれない。
やらなければならないことがなくなってしまえば、今度は自分と向き合わねばならない。
悩みも苦しみも辛さも、心を麻痺させて気づかないふりをして誤魔化してきた。
だから――乗り切ったわけではない。
和花は和花なりに母親の死を受け入れたはずだ。
ひなぎはひなぎなりに、来栖音葉の死を糧に前へと進んだ。
なら、自分は。
ひなぎの背中を押した張本人である自分は、どうか。
……ああ、ほんとうに情けないな。
自分のこともちゃんとできない奴が、やりたかったことをちゃんと成し遂げることなんてできるわけもない。
結局伝えたいことは自分の口から伝えられないまま、それもまた狙い通りだって言い訳をして自分を守ろうとしている。
情けない自分を自覚してしまうと、どうにも心臓が早鐘を打って治まらない。
これ以上はさすがに危ないと思って、強引に意識を切り替える。
よろけながら立ち上がって、モニタの置かれた背の低い机のそばに向かう。
近くの床にはお古のデスクトップパソコン、数世代前のやつだ。メモリが大きくなく、複数の作業を同時にやるのには向かないが、絵を描いたり画像を加工したりするぐらいなら全然問題ない。だから、旅館でバイトをした後に作業できるようにここに持ってきていた。
檜葉旅館のこの『蕣』の部屋は、端的に言えば俺の『缶詰部屋』だった。
ひなぎや和花のような目立った活動は、あまりしていない。
それでも自分はクリエイターの端くれだ。
文章も書くし、絵も描くし、音楽も創る。
そうやってまっすぐ表に出せない感情を吐き出すことでしか、自分は自分を救えない。
自分にできることはおおむねやり遂げた。
でも、まだできることがあるはずだ。
*
どれほど時間が経っただろう。
そこまで長い時間パソコンに向き合っていたわけではないと思う。
中断していた作業……というか、すでに終わった作業を一から洗いなおして作り変える、そんな作業だ。
疑心暗鬼になっているわけではない。
直しを入れる前のクオリティーも、相当のものではあると思う。
一〇〇点の作品だ。
一〇〇点満点のテストであれば、これ以上の点数は取れない。
でも、自分がやろうとしていることは、一〇〇点満点のテストでそれ以上の点数を出そうとしているようなことだった。
「無謀だな……」
「なにが無謀なの?」
「わひゃあっ!?」
脇から声がかかってとんでもない声が出た。
「い、いつからそこにいたんだよ、茜っ?」
「二時間くらい前から……ふわぁ」
茜は答えながら眠そうにあくびをする。
二時間……二時間って言ったか?
創作なんてしない一般人からすれば、十分長い時間のはずだ。
そりゃあ眠たそうにするのも無理はない。慌てて壁掛け時計を見れば、もうてっぺんを通り越してしまっている。
「先に寝ててもよかったんだよ。布団もちゃんと敷いてあるんだし」
「先に寝たら飾に襲われちゃうかもしれないでしょ」
「するか」
襲うわけがない。
そう思って茜を見つめるも、茜は少しさびしそうな顔をしていた。
意味がわからない。
「今回は飾のそばにいてあげなきゃだし。ほら、飾が血迷って突拍子もないことする可能性もあるでしょ?」
「しないって」
ぎこちない笑みを浮かべる茜に言い返すも、彼女の表情は晴れなかった。
「見ててもつまんないでしょ」
「つまんなくはないよ。なにやってるかはわからないけど」
個人的な創作活動を傍から見られるのは、そういえば自分は初めてだった気がする。
見せて、と言われて見せるのは恥ずかしくてたまらないけれど、こういった形で偶然見られてしまってもあまり恥ずかしさは感じなかった。
茜をこの部屋に泊めるのが決まった時点で、そうなる未来だったのだ。
茜がいることを気にしていたら、なにもできない。
「俺はまだしばらく起きてるけど」
変な時間に寝ちゃったし、気が立って眠れそうにない。元々睡眠時間はあまり多くない方だったし。
「それならあたしも起きてる」
「えええ、でも眠いでしょ」
「ここで寝たら本末転倒でしょ。やっぱり血迷った飾が突拍子もないことするかもしれないし」
「しないって」
どれだけ俺が血迷うと思ってるんだよ。
迷わず答えるも、訝しげな視線を向けられてしまう。
「……まだ死ねないって。和花もアレだし、ここで死んだらひなぎも傷つくし」
「あたしも、でしょ」
「そう、茜も」
まだたくさん未練がある。
すぐには死ねない。
「だから大丈夫だよ、眠っていても。そばに茜がいるだけで救われてるから」
「え」
茜は目を丸くした。
少しして、茜はなにかを理解したのかだんだんと頬が赤くなってくる。
「そ、そういうのはあまり軽率に言わないで」
「……あのねぇ」
こんな言葉を、軽率に言えるわけがない。
と、馬鹿正直に茜には伝えられないか。
勢いも少しはあったけれど、『救われてる』と言葉を発するのに実際はかなり勇気が必要だった。無意識で出た言葉なんかじゃない。
やっぱり茜は、気づいてほしいことに対するセンサーはまだ鈍い。
でも、それが茜のよいところだ。
魅力、と言い換えてもいいかもしれない。
照れを隠すように布団を被ってしまった茜を見ながら考える。
さっき、茜がさびしそうな表情をした意味。
今になってようやくわかった。
茜も俺が、茜の考えていることを読めなくなっていることを察していたのだ。
彼女の心の声を想像するなら『やっぱり読めていないのか』とかだろうか。
おそらくは、俺が先に寝た茜を襲うことはない、ということに対して残念がっていたわけじゃないはずだ。
……そうであってほしい。




