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52.罪を贖えないという罪

茜視点

 夕食を取ってからしばらく時間が経ち、夜も更けていた。

 お風呂に入ってしまえば特にやることもなく、会話の種も尽きてしまった。とはいえ、変な時間にうたた寝してしまったあたしも飾も目が冴えてしまっている。


「あたし、ちょっと涼んでくるけど」


 財布を持って言う。飾は窓際で雨降り頻る夜の海を眺めていた。ここに置きっぱにしているというスピーカーを近くに置いて、優雅に音楽を聴いていた。


「いってらっしゃい」

「うん、行ってきます」


 短く言葉を交わし部屋を出る。

 時間が遅いこともあって小さい明かりが廊下を照らす。窓を叩きつける雨音も相まって幽霊でも出そうな雰囲気がある。

 おっかなびっくりな歩き方になりながらロビーに辿り着くと、そこには浴衣姿の見目麗しい女性が、ウイスキーの入っていたグラスを片手にロビーの椅子に腰掛け、物思いに更けていた。


 律さんだった。

 飾の親戚である、柏木律さん。

 ここ、檜葉旅館の女将をする傍らで様々な事業も行っている敏腕社長。仕事に関しては文句のつけようがない実績があるけれど、私生活においては一切参考にしてはいけない人らしい。

 なんとなく、彼女がここにいるような気はしていた。

 ダメな大人、と飾は言うけれど飾のことをよく見ている人だということは、少し会話をすればわかることだった。

 律さんはあたしの姿を見つけると、口角を上げる。


「そろそろ来ると思ってたよ」

「えっ?」


 その言葉に思わず驚いてしまう。


「驚くことはないぞ。特にやることもないから気分転換にって感じだろ」

「その通りですけども」


 あたしたちの状況を理解していなければこれほど簡単に推察することはできないだろう。もしかすると、あたしたち以上に今の状況を把握しているのかもしれない。


「飾の様子はどうだ? やけになってないよな」


 近くの椅子を引きながら律さんは言う。座れ、ということなのだろう。ありがたくその椅子に腰掛けると、「今のところ落ち着いてます」と言う。


「車で話していた通り、薄々こうなるって覚悟はできていたみたいです。少なくとも、あたしの前では少し疲れているように見えるくらいでいつもと大して変化がないというか」


 本当にあたしが必要だったかわからなくなるほどだった。

 あたしの話を聞いて、律さんはゆっくりと頷く。


「結構ぎりぎりだな」

「……そうなんですか?」

「ああ。限界に近いときほど飾はいつも通りに感じるからな。死期を悟られないように強がって飼い主の前から消えるっていう猫の美談と一緒だよ。茜ちゃんがいなければ、たぶん自分の辛さはひとりで抱え込んでたと思うぞ」

「そう、でしょうか」


 瞼を閉じ、あたしがいなかったときの飾を想像してみると、たしかにひとりでどこかに逃げて、苦しみや辛さはすべてひとりで抱え込みそうだった。

 一気に背筋に嫌な汗が流れてくる。

 飾がひとりで教室から消えたあと、校舎を出る前にあたしが間に合っていなかったらどうなっていたのか。

 さすがに思い詰めるまでには至らなかっただろうが……。


「だから、茜ちゃんが飾と一緒にいてくれて助かった。ありがとう」

「そ、そんな頭を下げられることじゃ。と、」当然のことをしたまで、と言いかけて、三年前その当然ができなかったことを思い出す。「同じ失敗を繰り返すわけにはいきませんから……」

「ん? ああ、三年前のことは気にすんな。それは飾の凡ミスだろ、たぶん」


 たしかに、あたしに通じないやり方をした飾の凡ミス、かもしれないが。

 割り切れないことだ。

 なにもかも抱え込んでいた飾が上手に立ち回れなかったことはしょうがないことなのに、その飾の辛さに気づけず助けてあげられなかったあたしが庇われるのは、逆におかしい。

 だが律さんは、あたしの反応を見て笑う。


「……ってのも、実は罪の意識を芽生えさせる手段なんだよ。茜は素直だから助かるよ」

「そ、それってどういう……」

「簡単だよ。『お前は悪くない』って言われたら、逆に自分の悪いところを探すんだ。罪を贖う機会を与えないこと自体が、善人に対する一番の罰なんだよな」


 言われてはっとした。

 気にするな、ということを言われてそれを素直に受け取る人は決して多くない。

 気にするなと言われて余計に気にしてしまう人は、往々にして真面目な人だ。

 その真面目な人、という存在を律さんは今回『善人』と呼んだ。


「『善人』がミスしないわけでもないし、悪いことしないわけでもない。人間だからな。魔が差すこともあるし、追い込まれて道を誤ることもある。というか、真面目な奴ほど追い込まれたときに踏み外す幅は大きいからな」


 昔のことを振り返るようにうえを見上げる。


「音ちゃんの件は不運な事故だったから、善人とか悪人とかそういう括りにはできないけど」律さんは音葉さんのことを親しい間柄のように『音ちゃん』と呼んで言う。「表に出さないけど、事故を起こした相手に飾はかなり怒っていたんだ」

「……飾が怒る姿、あまり想像できません」


 そりゃあもちろん、これまで飾が不機嫌になった姿は見たことがある。

 この前春日と対峙したときがその最たる例だ。

 ただ、飾が感情的になった姿をあまり見たことがない。

 律さんの言葉が正しいのであれば、激しい感情を表に出していないだけでひっそり隠し持っていただけということになる。


「……」

「腑に落ちたような表情だな」

「あたしの表情を解説しないでください」


 でも、律さんの言ったことはその通りだ。

 腑に落ちた。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 飾が胸の内に激情を抱えているのも、それを押し殺して普通に暮らしているのも、俗にいう『解釈一致』という言葉が相応しい。

 律さんの語った飾の姿は、まさしく『飾らしい姿』だと思った。


「それで」気を取り直すように咳ばらいをすると、律さんは真剣な表情になった。「三年前、音ちゃんの事故のときの飾がどうしたか、わかるか?」


 なにが言いたいのかは、なんとなくわかった。

 すでに例は提示されている。

 ただ、その限度がわからない。

 母親が亡くなるほどの出来事が起こったとき、飾がどれほど怒って、どれほどの行動を起こすのかがまるでわからないのだ。

 その答えはすぐに律さんが答えてくれた。


「加害者に何もさせなかった。示談の条件は『示談金を支払わないこと』だったんだよ」

「……へ?」


 あまりにぶっ飛んだ答えに唖然としてしまう。

 普通、示談というのは裁判をしないために被害者と加害者で話し合って折り合いをつけることだ。

 もちろん、起こった出来事の大きさによっては示談金が発生しないこともあるかもしれない。

 だが、三年前の事件では人がひとり死んでいる。

 それも、母子家庭の大黒柱である母親が、だ。

 断片的な情報を聞いただけでも、一般人が想像できないほどの賠償金になりそうなものを。


「タダ……ってこと?」


 まして亡くなったのは、かの来栖音葉。人の命に貴賤はつけられないけれど、来栖音葉が喪われたことによる経済的損失は計り知れない。


「ま、そういうこと。かわいい顔してやることえぐいよな。罪を償う権利すら与えてやらないなんて。……そんだけブチ切れてたってことなんだけど」

「うわぁ……」

「引いてる? 引いてるよね?」


 正直、かなり引いていた。

 おかしい、狂っている。

 その言葉に尽きる。


「金に困っていないからできることではあるんだけどね。あさひさんがいなかろうが、音ちゃんが死のうが一生食うに困らない資産はすでにあるからな、あの兄妹は」

「だからって」

「そう、普通はしない。示談金だって相手と折り合いをつける重要なファクターだ。というか、誰にとっても価値が平等なものは金ぐらいしかない。金では解決できないっつって示談交渉が決裂する場合もあるけど……飾の場合は示談金を支払わないことが和解の条件だったから」


 それはつまり、飾にとって金を払わせないことに価値があった、ということだ。

 もっと具体的に言うなら。


「罪を贖わせる権利すら与えない、ことに価値があった……」

「そうそ。罪を贖うことすらさせてもらえないことは、善人であればあるほど罪の意識を大きくさせる。善人にとっては一番の罰とも言える」


 示談金を支払わないことで、金銭的な苦労は生じない。これまで通りの水準の暮らしを維持することができる。

 普通に暮らせることが、加害者側を苦しめるのだ。

 なにも苦労しなくてよいことが、苦痛でたまらない。

 飾の激怒具合がよくわかる。

 自身の行動がどういった結果に繋がるかを冷静に分析したうえで、相手にとって一番効果的な罰を与えた、というわけか。


 これはたしかに『かわいい顔してやることがえぐい』と言われても当然だ。

 乾いた笑いしか出てこない。

 そんなあたしを見て、律さんは静かに頷いていた。


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