50.父と檜葉旅館
茜に肩を揺すられて目を覚ました。
どうやらすでに目的地には辿り着いていたらしく、寝ぼけまなこをこすりつつ車を降りる。
律さんの経営する檜葉旅館は、浮花川の外れにあるものの市内でも随一の旅館だった。市内へのアクセスがよいわけではないけれど、海が近く景色がよい場所だ。
漁港があって、波止場があって、砂浜がある。夏には海水浴もでき、それ目当てのお客さんも大勢来るらしい。
今日は生憎の雨で時化た海しか見えないけれど。
「……」
雨の日の土くささにかき消されかけているけれど、かすかに潮の香りがした。
「助かった。あとは家に帰ってて」
車を降りた律さんが、運転席の旦那さんに声をかけていた。少し呆れたような表情を見せた旦那さんは、そのまま走り去っていった。
「ちょっと扱い雑すぎない?」
「元ヒモだからね」
今は、多忙な律さんの雑用係。ヒモ時代から比べれば健全な関係といえるけれど、一般的な家庭とはさすがに言えない。そんなことを言ったら、我が家もまったく一般的な家庭ではないが。
「お前ら、行くぞ」
律さんが先に歩いていってしまう。
慌てて追いかけると、律さんに気づいた職員たちが慌ただしくする。律さんがそれを手で制すると、受付の女性に「柏木の部屋、使えるよな」と訊いた。
どうやら問題ないらしく、ぱたぱたと鍵を取り出してきてそれを律さんに手渡す。
その間に周囲の人の反応を確認して、ほっと胸を撫でおろす。檜葉旅館の人たちは、俺が柏木の家の人間だと知っている。今回の騒ぎで来栖音葉との繋がりも知られてしまっただろうけれど。
「……どしたの、物珍しそうに」
茜がじろじろと内装を見回していたので、気になって訊いた。
「いや、なんかすごいなって。あたし、旅館なんてほとんど来たことないからこんななんだって思って」
「ああ、そういう意味」
とてもシンプルな言葉だけれど、感嘆するわけもわかるので納得してしまう。
律さんがちらと俺たちを見たので、まだ見足りなさそうな茜の手を掴んで引っ張っていく。
「今日は泊まるから、見る時間は十分あるよ。それに、内装がいいのはロビーだけじゃないしね」
腕を引っ張られる茜の視線はロビーの内装に釘付けになっていた。ただ場所が廊下に移り変わって、すぐに目移りし始める。
この旅館の客間はそれぞれ、植物の名前が冠されている。
その植物に合わせて、柱に彫刻が施されているのだ。じっくり見ていたいだろうが、こうしている間に律さんとの距離が離れていってしまっている。
まあ、今日借りる部屋は俺がいつも使わせてもらっているところだから場所は問題ないけれど、この旅館の代表を待ちぼうけさせるのはよろしくないだろう。たとえ親戚だろうとも、従業員さんをびびらせてしまう。
「ねえ、茜」
「……ごめんごめん」
後ろ髪を引かれつつも、今度こそ素直についてきてくれた。
「それにしても、広い旅館……」
「柏木の家系って、本家だろうが分家だろうがどこも財力だけは無駄に高いからね」
だから、普通では考えられない額の投資をぽんと行ってしまうことができる。
観光客も目立って多いわけではない地方に大きな旅館を建てて儲けが出る、という考えは普通思い浮かばない。
だって、景色がよいことは特別なことではないし、サービスがよいことも普通のことだ。もしそれらを売りに旅館を建てようものなら、早々に潰れてしまうのがオチだ。首都圏や観光地でも簡単に傾いてしまう業界だというのに、さして需要が大きくない地方ならなおのこと成功するとは思えない。
そこで別の需要を自ら作り出して成功してしまうのが、律さんの手腕なのだけれど。
律さんは『蕣』という部屋の前に立っていた。腰に手を当てて、俺たちのことを微笑ましそうに見ている。
「なんですか」
「いんや、お前も色男よな。顔は女にしか見えないけど」
「余計なことは言わないでください」
ほんとうに余計なことだった。好かれるのはうれしいけれど、色男という言葉から想起されるように女子を侍らせる気は毛頭ない。
「独占欲、けっこうあるもんな」
「それも余計です」
これ以上律さんと話していると茜に知られたくないことを聞かれてしまいそうだったので、律さんの手から『蕣』の部屋の鍵を奪い取る。それを確認して律さんは「今日は檜葉にいるから、なんかあったら言えよ」と言って去っていった。
「まったくもう」
仕事はできる人だが、それ以外はてんでダメな大人だ。
必要以上の気遣いはまったくするつもりはないらしい。
「……飾、この部屋の漢字読めないんだけど」
茜が首をひねっていた。
「植物の名前、だよね。ほかの部屋も植物っぽい漢字で統一されてたし。大体読めなかったけど」
「律さんはひねてるから、簡単に読める漢字はわざと使わないんだよね」
肩を竦める。
李や櫚、菫といった、単字かつ字面や音のかわいらしさを意識して部屋の名前をつけている。ちなみに某魔法魔術学校の物語で出てくるトネリコの漢字が『梣』だと知ったのも、この旅館だった。
ちなみに、律さん用の部屋の名前は芝。理由はいたってシンプル、競馬が好きだから。
「……はぁあ」
名づけの理由を思い出して溜め息が出てしまった。
気を取り直して近くの柱を見る。その柱には、特徴的なラッパ形の花が数輪彫られている。それを見て茜もこの部屋の名前が何か気づいたらしい。
「あさがお、か」
「うん、そう。……どうぞ」
鍵を開けて彼女を中に招き入れる。
この『蕣』の部屋は、一般のお客さんに貸し出されることがない部屋だ。従業員の区画からほど近いところにあるため、臨時で泊まり込みになった従業員がここを使っている。
とはいっても、従業員のスケジュール管理が問題なくできていれば臨時で泊まり込みになることもない。
もしヘルプが欲しい場合は俺が呼び出されるので、実質使うのは俺だけなのだ。
だから、この部屋にはいくらか俺の荷物が置いたままになっている。お古のデスクトップパソコンや、その他作業用の機材、着替えの入った鞄。ちなみにどこの客室にも置かれているテレビはこの部屋には置かないでもらっている。
そのことを茜に説明すると、茜は少し驚いていた。
「贔屓されてる、ってこと?」
「端的にいえばそう。律さんの親戚だからってのもあるけれど」
実際はもう少し複雑だった。
「この旅館、ロビーとか廊下とか見ていてどうだった? 趣向を凝らしたようなものばかり置かれていたでしょ」
「あ、うん」
話が唐突に切り替わったことに、茜は少し戸惑っていた。
構わず続ける。
「客室も……まあ、この部屋の家具や調度品は質素だけれど、他の部屋は結構芸術的なものも多いんだよ。どうしてかわかる?」
「……いや、わかるわけないって」
「はは、知ってた」
笑って返す。
おそらく同じ条件を与えられれば和花や榛名はすぐに察することができるだろうが、さすがに茜にそれを期待するのは違う。
「驚かないで聞いてほしいんだけど」
「……うん」
「この建物自体が、父さんの遺作みたいなもんなんだ」
「…………は?」
理解が及ばず口を開けて呆ける茜に、さらに笑みを深めてしまう。
「律さんが旅館やるって聞いて、建物の設計から家具や調度品、エトセトラエトセトラ。それらをすべて父さんが作ったわけ。ああでも建物に関してはさすがに建築業者に頼んだんだけど、設計が複雑で業者からは非難轟々だったらしい」
これも今となっては笑い話だ。
父の作品の大ファンである一部界隈では有名な話ではあるけれど、一般層には浸透していない話でもある。
それはひとえに、その界隈が美術品ともいえるこの旅館を独占したいからなのだろう。
一般客はもっと安くて観光名所に近いホテルを借りるのだ。彼らの目的は浮花川を観光して景色を眺めたり美味しいご飯を食べたりすること。
そういった人たちははなから客としては想定されていない。
「ここは金持ちのための、泊まれる美術作品なんだよ」
天才と謳われた父が最期に作り上げた大作で、父の作品の中でも一番金がかかった作品でもある。
美術作品だったから、茜はどうしても視線を釘付けにさせられた。
美術作品であるがゆえに、価値を理解した金持ちたちがこぞってここを利用してくれる。
むしろ、価値のわからない人を寄せ付けないために、話題にはしない。させない。メディアに取り上げられ下手にもてはやされでもしたら、審美眼のないミーハーたちがハイエナのように集ってくるだけだ。
しかも、これは偶然の産物というわけではない。
すべて最初から、何物にも代えがたい旅館になることを計算して律さんと父はここを作った。金を落とす人たちだけがその価値を理解できるように仕込み、父が死んで、これ以上新たに作品が生まれなくなることでこの『檜葉旅館』は完成したのだ。
ゆえに、この作品の価値は、もう金額では推し量ることができない。
父は死に、もう作品は生まれない。
残された人たちは、遺された作品から勝手に解釈を広げて価値を高めていくことしかできない。
亡霊を忘れられず追いかけてしまう冒涜者が、遺された作品から勝手に解釈を広げて価値を高めていくことで、作品の価値は無限に膨れ上がっていってしまう。
「……父さんは、どこまで未来が見えてたんだろう」
そこまで茜に説明をした直後、思わず言葉が漏れた。
この旅館に限った話ではない。
母の歌手としての成功も、俺や妹の未来まで、ある程度見透かされていたのではないか。
今ならそう思える。
俺たちの住む家の設備とかこの旅館とか、そういう考えに至る要因があまりにも多すぎる。
望んだ未来のために数えきれないほどの布石を打つ。父はその成果を自分の目で確認することはできなかったけれど、それが成功したかどうかは言うまでもない。
そこまで考えて、茜が肘でわき腹を小突いてくる。
「人のこと言えないじゃん」
このひと月の間の出来事を思い浮かべて、茜は言ったらしい。
自分のことを棚に上げるな、と言わんばかりの視線を向けてくる。
思えばたしかに、自分のしていたことは父と同じことだったのではないか。
それは、まったくもって意識していなかったことで。
これは一本取られた、と思った。




