48.泡
飾視点
騒ぎに乗じて教室を抜け出した。
どこかで爆弾でも爆発したみたいだ、と他人事のように思う。実際は、爆弾を仕掛けたのは自分だというのに。
「やっぱりこうなっちゃったかぁ」
騒がしいエリアから少し離れたところまで来て、なんとなく呟いてみる。こうなるかもとは、いろいろと予想を立てている中で薄々勘づいていた。
だから、覚悟を決める時間はかなりあった。
どうだろう。あんまり傷ついてないかな。そう確認するように呟いてみたのだけれど、胸はちくりとも痛まなかった。
よし。
周りがこの出来事をどう思っていようが、自分は大丈夫そうだ。
自分が立てた筋書きを、ところどころ躓くことはあったけれど、問題なくなぞることができたと言っていい。上出来じゃないか。
結果的には、最悪の想定通りになってしまったけれど。
「……ん、あれは」
ふらふらと、幽鬼のような足取りで廊下を歩く私服姿の女子の姿が目に入る。
ひなぎだった。
メディアを通して見る華々しい姿とは、あまりにもほど遠い姿だった。
……ただ、この状態のひなぎは見たことがある。
奇しくも、あのときの彼女も黒髪だった。
「……っ」
目が合ったひなぎが、息を詰まらせる。
躊躇いが一瞬見えた。駆け寄ろうとして、問いただそうとして唇がかすかに動く。
慌ててその口を両手で押さえて、ぎゅっと何かを堪えるように両目を閉じると、そのまま目を逸らして走り去ってしまった。
「……あ」
伸ばした手が虚しく空を切る。
そのまま重力に逆らえず、力なく腕が落ちる。
残ったのは罪悪感だった。
「ああ……さすがに結構キツいな、これは」
今ひなぎの抱えている感情を考えると、気づいていないふりをしていた心の傷が痛んでくる。三年前から蝕み続けているものだ。大事なことを言えない自分の不甲斐なさ、それが原因で傷つけてしまっている人たちのことを思うと、どうしても辛い。
『もっと早く言ってくれれば、無神経に飾くんを傷つけることなんてなかったのに……』
そう唇が動いたように見えた。
自分が辛い思いをするのはいい。
これまでずっとそうして生きてきたし、自分の努力が明確に報われることはないと半分諦めている。自分の代わりに大切な人が幸せになってくれれば、俺はそれだけで満足なのだ。
だからこそ今回選んだ道に対して『これでよかったのか』と自問自答し続けてきた。
誰も傷つかない選択なんてものがないことはわかりきっていたけれど、誰もが傷を負う選択をわざと選ばなければならない理由が、まだ明確には出せていない。
今目の前に広がっている光景は、まさしく誰もが傷つく選択をした結果と言える。
その影響をまざまざと見せつけられてしまって、いつにも増して精神的にやられてしまう。
自分で選んだ道だからこそ余計に、『やさしいひなぎを傷つけなければならなかったこと』が苦しくてたまらなかった。
胸の上から、痛む心臓を誤魔化すように右手を押し付ける。このぽんこつめ。長い付き合いとはいえ、少しは空気を読んでほしい。
よろけるように背中を壁に預け、荒くなった呼吸を落ち着ける。
「だ、だいじょうぶ!?」
目を閉じていると、慌てたような足音と声が耳に飛び込んでくる。茜だとすぐにわかって慌てて佇まいを直そうとするも、よろけて逆に身体を支えられてしまった。
ぼんやりしすぎていた。
茜に見つかる前に校舎から出るつもりだったのに。
「そんなばつが悪そうな顔をするんじゃない」
俺の呼吸が落ち着いたのを見計らって身体を離した茜が言う。そんな顔していただろうか、と思いながら表情を隠すように苦笑いを作る。
「べつにそんなつもりは」
「あたしに会いたくなかった、みたいな顔してる」
心の中を見透かされたようで息が詰まった。
それを見て、茜はゆっくり息を吐く。
「飾が思ってるよりあたしは冷静だから安心して」
「……気づいてたんだ」
なにが、とは言わなかったけれど茜はすぐにわかったようだ。
「ん。そりゃまあ、いつまでも鈍感のままじゃいられないから」そう言って茜は自嘲するように肩を竦める。「まあ、それを教えてもらったのはつい最近だけど」
「……榛名か」
「それだけですぐわかるのね」
そりゃ、わかる。
俺の身の回りの人間の中で、真実を知った上で茜にそれを教えられそうな人は榛名ぐらいしかいない。
ただ、それはあくまで消去法でしかない。どうして榛名が茜にそれを教えたのかはわからない。
「榛名はなんて言ってた?」
「あたしも詳しく教えてもらってないけど、要約すると『今回のやり方だと、あたしには伝わらない』って感じだった」
「うぁ、そういうことか……」
「どういう意味?」
俺が頭を抱えたのを不思議に思って茜が訊いてくる。
茜の要約で、榛名の意図がすぐにわかってしまった。というか、どうしてここまで気づかなかったのだろうと不思議なレベルだった。
「……榛名の言葉通りだよ。今回の俺のやり方だと、茜には何も大事なことが伝えられないってこと」
その中には、今回どこかから漏れた母親との関係についての話も混じっている。
今回は誰かが外に秘密をもらしたことで茜にも知る機会はあった。しかし、それは最悪の想定の通り進んだ結果であって、すべてがよい想定に進んでしまったら茜には何も大事なことは伝わらなかっただろう。
それだけが理由というわけではないはずだ。万が一のことを考えて先んじて茜に真実を伝えておいたのだろう。
そうすることで、問題が起きなくとも茜は真実を知ることができるし、問題が起きたときは冷静な協力者をひとり増やせる。
榛名はあまりにも状況が見えすぎている。布石の置き方が、普通ではない。
「後で榛名にお礼言わないとなぁ」
至らぬところを影から支えてもらっていたわけだ。それに気づいてしまったら、何もお返しをしないというのは不義理だろう。
「……あの、そこは『自分で言いたかったのに』とか思わないわけ? あたしが言うのもなんだけど」
「……んー、今はあんまり感じてないかも」
もとから誰かに秘密をリークされるかもしれないと思っていたから、というのもある。状況をすぐに省みるほど、時間は経っていない。
辛い気持ちはある。
自分なりにできる限りのことはやったつもりだけれど、結局自分の口から真実を伝えることは、茜にもひなぎにもできなかったわけだし。
ただ、背負っているものが重すぎて、これ以上はもう無理だった。
目の前で砕け散っていく平穏を、もとからこうなる未来だったと思い込むことでどうにか平静を保っているだけだ。
どうせ自分には言えなかった。
こうなった方が、都合がいい。
そういう逃げ道で自分の弱さや不甲斐なさを肯定してあげないと、これまで独りでずっとし続けてきた頑張りすら、泡のように弾けてしまいそうだった。




