47.最悪の想定
慌ててやってきた靖彦先生に、状況をざっと説明して春日たちを引き取ってもらった。珍しく先生は憤っていた。その様子に、事態の深刻さを再認識させられたらしい。普段ではあまり見られないぐらいに、春日は顔を青ざめさせていた。
腸が煮えくり返りそうになるのを抑えつつ、和花を見る。
彼女は幾分か落ち着きを取り戻していた。目尻に溜めた涙を手の甲で拭いながら、ゆっくりと大きく息を吐いた。
「……言いたかったこと、代わりに言ってくれてありがと」
「ううん。あたしも思うことがあったから」
感謝されることだとは思えなかった。和花のためではなく、自分のために言ったことだ。
しかも、これで何もかもが終わったわけではない。
野次馬のひとりに聞いた情報では、噂の発信源はインスタグラムらしい。当然発信者が鍵垢だった可能性もあるが、クローズドなコミュニティであればここまで情報の回りは早くない。
それに『人の口に戸は立てられぬ』という言葉があるように、噂を止めるのは難しい。すでに手遅れの可能性が高い。
これからのことを考えただけで気が滅入ってくる。
……ほんとうに辛いのは、飾や和花だろうけれど。
「あたしは教室に戻るけど。飾が心配」
「私も……って言いたいところなんだけど」
和花は弱った笑みを浮かべた。顔が少し青くなっていて、右足をしきりに気にするそぶりを見せる。
「……あの先輩を倒すのに無理しちゃって」
はっとした。
高校に入学してからはずっと平然に過ごしていて忘れかけていたけれど、和花は去年大怪我を負っている。……たしか、母親と同じ交通事故。
一年ちょっとで日常生活を送れる状態に回復できることが奇跡と言われるくらいの大怪我だったというし、普通なら下半身不随になっていたとも聞いていた。
だから激しい運動は禁止で、走る姿も最近は見ていない。
当然、足を使って無理に人を転ばすなんてもってのほかだろう。
「これでも気を遣ったんだよ。男子の方が頑丈だから。仮に容疑者が女子だったら、力で訴えるようなことはしなかったし」
「そういう話じゃ」
「……って、元気そうに振舞ってるだけ。ほんとはもっとアクティブに動き回りたいけど、残念ながら、もう自由の利く身体じゃないからね」
よろけるように壁に身体を凭れた和花に慌てて駆け寄ろうとする。でも和花は首を横に振って「だいじょうぶ」と言った。
「こっちはこっちでなんとかするから、茜は兄さんをお願い」
「でも」
平気そうには全然見えなかった。
端正な顔は痛みを我慢するように歪んでいて、呼吸も浅い。どれほどの痛みかは、あたしにはわからない。でも、普段暮らしているなかではあまり感じることのないほどの痛みだと推測できた。
やせ我慢なのは、わかるのだ。
だからこそ、和花のそばから離れるのに躊躇してしまう。
「行って」精いっぱいの笑顔を作って、和花は言う。「兄さんを任せられるの、茜しかいないんだよ……おねがい」
切実な願いだった。
あたしにしかできない――その言葉は、これまで榛名からも言われていたことだった気がする。
飾が、音葉さんの子供だと教えてもらったあの日のことだ。
少し思い出す。
『気づいてるんじゃないですか? 飾さんが、桃川先輩の考えていることを読めていないって』
音葉さんが亡くなった直後の飾の行動を教えてもらった後、榛名にそう言われた。
もしかすると、とは思っていたことだった。
誇張ではなく、飾は人の考えていることが読めてしまう。
昔から周囲に合わせた行動をするのが得意だった。
それで気になって実際に本人に『心でも読めるんでしょ』と訊いたら『大体は』と返された。なんでも、人の表情や仕草、視線の動きには多くの情報が詰まっている。それに相手の情報や状況を照らし合わせて、行動予測をしているらしい。
ただ、そのぐらいは和花や榛名にもできるのだ。
全員が全員天才だからというのもある。
そういう血筋なのかもしれない、と思わなくもない。
ただ、飾のすごいところは予測以降の話。
行動予測を踏まえたうえで他人のコントロールすることがあまりに上手すぎる。
音葉さんとの親子関係を明かされないために行ったことが、大立ち回りだったらしい。
榛名から聞かされたことは、ちょっとひと言では語りきれない。簡潔に言うなら、敵には弱みを、味方には弱さをちらつかせた……という話。おそらくこれだけではわからないけれど、三年前の飾の奔走はこれ以上簡潔にはできそうにない。
とにもかくにも、飾は人の考えが読めた。
ただ、最近のあたしに対しては、まったくもって考えが読めていなかった。
どう考えたって、三年前の飾の告白をふいにしてしまったことが原因なわけだが。
『それを責めようとしているわけじゃないですよ』
あたしが後悔に苛まれたのを感じて、榛名は言った。
『今回に限っては、それが都合いいですから』
さらにそう言われ、あたしは首を傾げた。
都合がいい。
つまり、考えを読まれないこと、行動を予測されないことが都合いい、ということだった。
『というか、元々桃川先輩って飾さんからすればあまり考えが読めない人だったと思うんですよね』
おい。
『事実でしょう? これまで自分の行動で飾さんが戸惑ってたこと、よくあったでしょうに』
そう言われると、なにも返せなかった。思い当たることが山ほどあったからだ。
『だから。桃川先輩を頼るわけです』
前の話との繋がりが遠くて、疑問ばかりが頭の中に浮かんでいた。それらを解きほぐすように、榛名は説明してくれた。
『今の状況は、おおむね飾さんの想定通りに進んでいます。どういう状況かっていうのは説明が難しいんですが、わたしや和花、ひなぎさん、その他大勢が飾さんの手のひらの上にいると思ってもらって構いません』
驚くあたしに間違いないと言わんばかりに榛名は頷いた。
『いくつもの可能性を想定して、そのうちのどれかに進んでいる。もちろんその中には良い予想も悪い予想もあるでしょう。ただ、どの予想を踏んでも、最終的には今起こっている問題が解決できるようにコントロールしている。それがどれだけすごいことかは……まあ、さすがにわかりますよね』
榛名の話は『どれだけ悪い状況になったとしても、自分の目的が達成されるように飾が調整している』ということだった。
それがどれだけおかしいことで、どれだけの労力がかかって、どれほど飾が神経をすり減らしているか。ちょっと考えるだけで頭が狂いそうだった。
『良い予想が当たれば、桃川先輩はなにもする必要はないです。……ただ、悪い予想が当たってしまえば、いくら想定通りだったとしてもキツいでしょうからね。そして、悪い予想が当たった場合、ひなぎさんにそれを対処することが不可能です』
今考えれば、榛名が言っていた最悪の想定とは、この状況だったのではないか、と思う。
直接ひなぎに真相を伝えられないまま、それが世に拡散されてしまう。
ひなぎにとって来栖音葉は、飾とは違う意味での命の恩人だった。
コンプレックスを抱えていた時代の心の拠り所。だから音葉さんが事故で亡くなった際は大きなショックを受けた。
それを救ったのは、飾だったわけだが。
その飾が、音葉さんの子供で。
本当は自分よりも辛いはずで、苦しいはずで、泣きたいはずで。
それにも関わらず、自分にやさしくしてくれたことを知ってしまったら?
そこまで考えて、冷水を浴びせられたかのように、回想から現実に意識が戻った。
「わかった」
そういうと和花は頷く。
この状況は、紛うことなき最悪の事態だった。
まだひなぎが飾の家で待機していれば、考えを落ち着くタイミングがあったかもしれない。
でも今は、ひなぎが学校にいる。
残酷な現実に直面した後、冷静になれる時間が一切ない。
あたしは、転びそうになりながら走り出した。
教室を覗く。が、飾の姿はすでになかった。まだ教室にいた燈子に飾の行き先を聞くと、『ごめん』と言って教室を出て行ってしまったらしい。
それを聞いてすぐ教室を飛び出すと、車いすを運ぶ榛名とすれ違う。
――任せます。
刹那のアイコンタクトだったけれど、榛名のはっきりとした意思が伝わってきた。
騒ぎを聞いて、和花が無茶をすると即座に判断したのだろう。そうでなければ、この短い時間で車いすを持ってくることはできないはずだ。
……ほんとうに、状況の理解と判断がおそろしく早い子だ、と走りながら思う。




