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44.絵画

 午後の授業がすべて終わるころに、私たちは校舎のおおよそすべてを回り終えた。生徒たちが普段授業を受ける教室だけでなく特別教室や体育館、部室棟など、回れるところはおおよそ回ったと言ってもいいと思う。


 得られるものはたくさんあった。

 学校の雰囲気を久しぶりに間近で感じることができたし、義務教育とは異なる高校での生活を直接見ることができたのはいい意味で勉強になった。

 大人に混じって仕事をし続けていると、若者らしい瑞々しい感性を忘れてしまいそうになる。現にあずさは達観しすぎていて、今の姿だけを見たら高校生には思えない。さすがに、まだこうはなりたくない。


「なにか?」

「い、いやぁ、なにもないよ、あずさ」


 失礼なことを考えていると気づいたみたいで、あずさから鋭い視線を向けられてしまった。咄嗟に誤魔化したけれど、内心びくびくしていた。

 あずさは怒るとかなり怖いから、気をつけなければ。

 教員用の昇降口の傍まで戻ってきて、あずさが立ち止まった。


「私の目的は達成できたから先に帰るけど、ひなぎはどうする?」


 見れば、これまで首にかけられていたストラップはすでに外され、手の中にあった。

 私もこれ以上回りたいところはない。ただ、せっかく高校に来ているのだから、帰りは飾くんたちと合わせて帰るのもいいと思った。


「私は飾くんたちの授業が終わるのを待つよ」

「そう言うと思った」


 やれやれと言った様子で、あずさは苦笑いする。


「ストラップは私が返しておくわ。このあたりでじっとしておけば、特に問題は起きないでしょうからね」

「ああ、うん助かる」


 ストラップを首から外してあずさに手渡すと、あずさはひとりで手続きに向かった。

 あずさの方がこういった手続きになれているから、というのもあるだろうが、私と事務員さんの余計な接触を増やさないためでもあるのだろう。万が一私の正体に気づかれでもしたら、余計な騒ぎになってしまう。

 こういう気遣いができるのは、姉の背中を見て育ってきたからかもしれない……なんて思うと感慨深さが湧いてくる。兄弟がいない身からすると、少しだけ羨ましく思えた。


「さて」


 あずさが手続きをしている間、少し手持ち無沙汰になったのでこの辺りを少し見て回ることにする。学校についてすぐ応接間に通されたので、この付近はあまりじっくりと見られなかった。

 教員用の昇降口近辺は、部活動関連の表彰状やトロフィーが目立つところにあり、そこからさらに奥の方に行くと、在学中の生徒や学校関係者、地元のアーティストの美術作品などが展示されている。

 目立つところに展示されている作品は、さすがにどれも見ていて楽しい。


 吸い寄せられるように奥まったところに辿り着く。

 そこには、柏木あさひ、という名前の画家の絵が飾られていた。

 この名前は、さすがに知っている。飾くんたちのお父さんだ。

 世界的に評価されており、有名なものだと億を超える値がつけられているほど。そんな人の絵が、大して目立たない場所に飾られているとは思わなくて、一瞬目を疑った。


 だが、ひと目見ればこれがまがい物ではないと気づける。

 それほどまでの凄みがあった。


 やさしいタッチの水彩画、ひとつひとつの筆遣いの繊細さが、彼が表現しようとしていたものの繊細さを表現しているようにも見える。

 描かれていたのは、黒髪の女性だった。

 明るいステージの上で、彼女ひとりがライトから外れたところにいる。表情はもの悲しく、どこか簡単にぽっきりと折れてしまいそうな儚さがある。左手を胸に、右手を明るい場所に向けて伸ばす絵に、強く心臓を掴まれたような錯覚に陥った。


「どうかなさいましたか、藍沢さん」


 絵画に夢中になっている間に、ふらりと校長先生が近寄ってきていたらしい。

 慌てて向き直ろうとするも、気にするなと言わんばかりに首を横に振った。

 もう定年間近なのだというが、全然そうは見えない人だった。外見はさすがに年齢を感じる部分もあるが、まだまだ若々しい。そして何よりも、言い方は悪いかもしれないが、時代に取り残されていない。

 趣味が現代に対応している、といってもよいかもしれない。


 要するに割と話が合う、私のファンだった。

 ファンとは言っても年相応の落ち着きはずっと持っていて、特別取り乱すことはなかったけれど、校長権限で私の正体を知っているのでこっそりサインをねだってきた……というのが、校内見学前の出来事。

 校長先生は私の横に立ち、一度絵画を眺める。


「……これは柏木くんのお父さんが大学を卒業して、療養のために浮花川に戻ってきた後に描かれた絵画です。今から十年ちょっと前の話でしょうかね」


 昔を懐かしむようにくつくつと笑う。


「高校生時代の彼はかなりのやんちゃ坊主でしたよ」

「そうなんですか?」

「ええ。彼は柏木の本家とはそりが合わなかったようで、親戚のいる浮花川に単身越してきて。その分荒れていたんです、浮花川で友人もたくさんできて慕われてもいましたけれど、身体が弱いのにたびたび思いもよらぬ無茶をしましてね。漱石の『坊ちゃん』と重ねたこともありましたが……どうなんでしょう、今になってみると全然違う気もしますけれど」


 漱石も『坊ちゃん』も名前だけは知っているけれど、あまり詳しくなくて曖昧な返事しかできなかった。


「大学は東京のいいところにするっと入っちゃいましたが、身体は弱いままでしたから、いいお嫁さんだけ捕まえてすぐにこっちに戻ってきたそうです」

「……そう、ですか」

「ええ。それも、金銭面に余裕があったからできたことだと思いますが。絵画で世界から評価されていなければ、自身の医療費だけで火だるまになって自由に身動きできなかったでしょうからね」


 それは、飾くんたちがあまり話したがらない家族事情だった。

 父親が病弱だ、というのは調べればすぐにわかることだけれど、その詳細を知っている人はあまり多くない気がする。息子である飾くんと同様に、あまり多くを語らない人なのだということは、飾くんの口ぶりからして察するところはあった。


「この絵は、本来は奥さんに送られた絵だったんですが……その奥さんが、家にあっても邪魔だからってことでうちに寄贈されたそうです。そのとき私はここから離れていたので、詳細な経緯は存じ上げませんが」


 その言葉が、これまでこの絵に感じていた強烈な印象の正体だとすぐに気づいた。

 ここに描かれている女性は、間違いなく飾くんたちの母親だ。

 特徴的な黒髪も、異様なまでの美人さも、どことなくその顔つきも、兄妹と似ている気がする。父親が抽象画家ではなくてよかった。ピカソの『泣く女』みたいな絵画であったら、さすがに判別がつかなかったはずだ。


 ……なんて、ふざけたのは、ちょっとした現実逃避だった。


 この人が誰かを、すぐに察せる人はあまり多くないはずだ。

 現にこの高校の生徒たちはこの絵画に描かれた女性に関心を示している人はあまり多くないだろう。そもそもここに飾くんの父親の絵が飾られていること自体を知らない人も多いのかもしれない。


 だが、私はすぐに、この女性が誰か気づいた。

 気づいてしまった。

 気づけてしまった。


 もちろん、兄妹の母親だということに、ではない。

 絵画に描かれた女性の正体に、だ。


 そして、校長先生の話を聞いて、すべてを察してしまった。

 もう校長先生の話は耳に入ってこなかった。

 おぼつかない足取りで絵画の前から離れ、なにか話しかける校長先生のことも無視して、ゆっくり、ゆっくりとその場を離れる。


 そこから先は、あまり記憶が残っていない。


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