26.真実に胸を刺されて
釣り合わないから、諦めた方がいい。
その言葉の意味を最初はまったく理解できなかった。
私と飾くんが、釣り合わない。
周囲が私たちをどう認識するか考えてみると、たしかにそういう考えに行きついても無理はない。というか、自然だ。
でも、それを直接言われると、少しだけむかつく。
「そ、」
「それは、柏木に失礼だ、とか思ってるでしょうね」
考えを見透かされていて、呼吸のタイミングが乱れる。あずさは私が落ち着くのを待つと、淡々と事実を述べていく。
「私はいつひなぎのほうが上だって言ったの? 逆、逆なの。柏木にお前が釣り合ってないってことよ」
「……ぁ」
その言葉で、ようやく自分の認識が間違っていたことに気づいた。
世間の評価で言えば、藍沢ひなぎに軍配が上がるだろう。目立った活躍をしている私と、目立つ活躍を一切していない飾くんとでは、そもそも比較することが変だ。
でも、私はその世間の評価に毒されていた。
思いあがっていた、と言ってもいいかもしれない。
実際よりも自分の評価が高くなっていて、実際よりも飾くんの評価が低くなっていた。
無自覚に、だ。
だから私は、あずさが柏木飾を下に見ている、と思ってしまった。飾くんに失礼だと思ったのは、そのせいだ。
「よく考えてみてよ。ひなぎが柏木に勝てること、すぐに思いつける?」
そう言われてみると、すぐにはなにも思い浮かばなかった。
よくよく考えてみると、飾くんが何かに詰まっていた記憶がない。なにをするにしても淡々と、それができることが当然のようにこなしていた。
勉強について聞くとどんな難問でもわかりやすく教えてくれる。料理は和食洋食かかわらず作れてどれも美味しい。私が知らないだけで、和花ちゃんみたいにどんな楽器も弾けるのだろう。運動については、見たことがないからなんとも言えないが。
歌は、どうだろう。
あまり深くは考えたくないことだ。もし私より上手かったら落ち込みそうだ。
「……顔は」
「そこは拮抗しそうね。髪色含めなきゃとんとんで、髪色含めた容姿全体で比べればさすがにひなぎに軍配あがるわね」
と、あずさはジャッジした。
もし私が生まれもって白髪でなかったら、今この家にはいなかったはずだ。コンプレックスを抱えることもなく普通に生きて、なにも知らないまま死んでいったに違いない。本当なら、私と飾くんたちは生きている世界は同じではなかった。
「いい? そもそも柏木の家は半ば絶縁状態とはいえ父方も母方も名家なのよ。受け継がれてきた素質、素養の高さ、財力までもひなぎとは全然比べ物にならない」
「……それはそうだけど」
「納得できないのはわかる。心は一筋縄じゃいかないもの。でも、生半可な覚悟で関わるとろくな目に遭わないわ。絶対に後悔することになる」
あずさの言葉になにも言い返せなかった。
間違いなくあずさは、私以上にこの家の事情を知っている。
私のマネージャーの妹だから、というわけではないのだろう。姉とは別に、あずさは兄妹と関わりを持っているはずだ。
だからこそ、あずさは厳しい現実を突きつけてくるのだろう。
どうしようもないと分かったうえで。
「柏木はいろいろなことを教えてくれるけれど、大事なことははぐらかしているわよね」
「……うん」
「知ったらもう後戻りできないからよ。それほどまでにたくさんの重圧を、柏木はひとりで抱えている。妹の和花にすら弱みを見せないのだから、よっぽどの意地っ張りよ」
意地っ張り。
たしかにそうだ。
浮花川に来て、なにか飾くんに頼られたことはあっただろうか。
今思えば私ばかりが飾くんに寄りかかっていて、余計な負担をかけていた気がする。
私が昨日やったことはなんだ? これまでやってきたことは、なんだった?
その結果今起こっている騒ぎを思い出して、血が出そうなほど唇を噛む。
「……そっか、あずさはつまり、これ以上飾くんに負担をかけるな、って言いたいのか」
「ええ。わかってくれたようで何よりだわ」
あずさはほうと息を吐いた。そこでようやく重たい空気が緩和される。
「べつに、あんたが柏木とくっつこうが私はどうだっていいのよ。それでお互いが幸せになるなら本望だからね」
「あのぅ、もしやあずさが飾くんのこと好きなわけじゃないよね?」
「そんなわけないじゃない。冗談でもそんなこと言うのはやめて」
「あ、はい」
食い気味に言われたので、おとなしくする。でも、今までの会話を振り返ってみるとそう考えてもおかしくないとは思う。あずさは私のことよりも、飾くんのことを強く気にかけていた。
「あのね、あんなめんどうくさい性格のやつと一生一緒に過ごすのは、いくら心臓あっても足りないから。やさしいから意地っ張りで、『助けて』のひと言も素直に言えない馬鹿は私には無理よ。一番お似合うのは榛名なんだけど、あいつらくっつかないって決めてるみたいなのよね」
「……むぐぐ」
「あら、いっちょ前に榛名に嫉妬しているの? かわいいわね」
「あずさっ」
「もう、叫ばないの。どう考えたって事実なのだからしょうがないじゃない」
くすくすと笑うあずさに、余計にむっとしてしまう。あずさから見ても榛名ちゃんと飾くんがお似合いに見えるのだ。現実はなんとも非情だ。
あずさは少し呆れながら言う。
「ひなぎの頑張りも認めるわ。どん底から這い上がって得られた評価は、間違いなくひなぎの努力によるものだから。それを認めない人間なんて、死ねばいいのにって思うわ」
「……ちょっと。怖いこと言わないで」
「紛れもない本心よ。あ、炎上するからSNSには書かないでね」
炎上しそうなことをわざと言わないでほしい。
しかしあずさは、ずっと真剣だった。
「それでも全然柏木の苦労には敵わない。守らなければならない妹がいて、でも頼りになる両親はもういない。だからひとりで頑張るしかなかった。前を歩いてくれる人も、隣に立ってくれる人も、背中を押してくれる人も誰もいなかった。きっと心細かったでしょうね」
その詩的な表現を茶化す気にはなれなかった。
ただ、静かにあずさが曖昧に明かす飾くんたちのことを理解しようと頭を回す。
「和花が元気にしているから忘れそうになるけど、あの子も交通事故に遭って大怪我負ってるのよ」
「……ぁ」
すっかり頭の中から抜けていたことを、あずさは思い出させる。
今でこそ平気そうに暮らしているけれど、一年ぐらい前に和花ちゃんは車に轢かれて大怪我を負っている。一時は意識不明になっていたものの幸い命に別状はなく、一年経った今では日常生活が普通に送れている。
でも、でもだ。
そのときの飾くんの心情を思うと、あまりにも胸が苦しくなる。
感情が暴れそうになって、慌てて口を手で押さえた。
病院に辿り着いても、目を覚まさない妹。たとえ命に別条がないと医者に言われたとしても、その胸中は。
「柏木が世界で一番の不幸者だとは思わない。でもちょっと、それはさすがにひどすぎるじゃない……辛すぎるじゃない。たったひとりの家族すらいなくなるかもしれない、なんて思わされるのは」
事故の二日後に私が浮花川を訪れたときには、すでに和花ちゃんは目覚めていた。骨折した足に仰々しいギプスが巻かれていたけれど、普通に会話はできたのだ。
そのとき、和花ちゃんは自分の心配なんてまったくしていなかった。
ただ事故に遭ったことを後悔し、独りで家にいる兄をひたすらに心配していた。
その意味を、当時はまったく理解していなかった。和花ちゃんの兄が誰かなんて気づいていなかったから当然なのだが、気づいてしまうと後悔が募ってしまう。
……自分にもなにかできたんじゃないのか、と。
「ね。苦しいでしょう」
「……うん」
「だから、飾くんはあまり自分のことを語れない。自分を押し殺して妹のために過ごした日々ばかりだから語れることがあまりなくて、記憶に残っているのはこんな、ひどく苦しい思いをしたことばかり。聞いていて楽しい話ではないし、聞かせたら相手を傷つけるような話ばかりだもの。話さないのは柏木なら当然ね、やさしいから」
今も飾くんのことは『知りたい』と思う。
だが、おいそれと聞けるような話ばかりではないのだと、あずさの話を聞いて気づかされた。知らなければ、ただの友達で好きな人のままだった。これからの日々を妄想して、付き合って幸せになれたらなんて頬を緩めて、いつものように隣にいられたはずだ。
でも、ひとつ知ってしまったら、これまでのようにはいられない。
友達だから、好きだから、背負う痛みも分かち合いたいとは思う。
けれど私は、実際にはその覚悟はできていなかった。
だからたったひとつ真実に気づいただけで激しく心を乱されてしまう。
あまりに情けない。
あずさが『釣り合わない』と言うのも当然だった。
黙り込んだ私を励ますように、あずさはやさしい声でささやく。
「柏木が好きなのは応援する。きっとひなぎと結ばれるなら、飾も幸せになれると思う」
「……ほんとにそうかな」
「ええ、もちろん。だから話してあげたんだもの。ちゃんと受け入れて、支えてあげられるならきっと柏木も救われるから。……だって、誰よりもがんばったのにいつまでも報われないのは辛いものね」
そういって、私に考える時間を与えるように、あずさは通話を切った。
通話が終わった直後の画面が、あまりに冷たく感じる。少し経って画面が遷移するとSNSのアイコンが目に入る。おそるおそるそれを開いてトレンドを確認すると、昨日の私たちの配信が大きな話題になっていること、私の正体と私たちの関係を詮索する発言が嫌でも目に入ってくる。
私が起こした騒ぎだ。
和花ちゃんから誘われて配信に参加したとはいえ、自分の責任から目をそらすことはしてはならない。
ゆっくりと息を吸って、それをすべて吐き出す。
心はまだ澱んでいる。全然冷静さは取り戻せていない。
でも、やらなければならない。
頭の中を整理しながらしなければならないことの順序を組み立てていると、あずさの話した言葉の意味がゆっくりと心の中に溶け込んでいくように感じた。




