20.雑念
『藍沢ひなぎ』という名前は芸名ではなくて、紛れもなく私の本名だが、最近その名前だけがひとり立ちしてしまって、他人の名前のように思うことがある。
本名で活動しているのが要因なのは明白だった。
藍沢ひなぎという歌手を売り出すために作ったキャラクターと、活躍するにつれて人々が勝手に付け足したキャラクターが、今の『藍沢ひなぎ』という名前にまとわりついている。その結果、『藍沢ひなぎ』と『私』はまるで別人のような錯覚を感じるようになってしまった。
芸名と本名とで分ければ、そういったことにはならなかっただろう。
だが、デビューに向けて足掻きだした当時中学生の私はそこまで頭が回っていなかった。
おかげさまで私は、人生二度目のアイデンティティの喪失を、今抱えている。
ちなみに一度目は、白髪を隠して普通に学校生活を送っていた中学生までのことだ。そこから脱却するために歌手としてデビューした結果、またアイデンティティを疑うことになるとは。
皮肉が効いていて、なかなか面白い。
「中学時代ほど思い詰めていないから、私も大人になったのかな」
私は、居候させてもらっている和花ちゃんの家のスタジオで独り言つ。地下にあるこの部屋は、素人だったころならすごい部屋だとしか思わなかっただろうが、プロになった今の自分からすると異常な空間だった。
そもそも、個人の家にレコーディングまでできる設備があるという時点でおかしい。ひと通り楽器を置いてもゆとりのあるブースに、個人で扱うには過剰スペックと思われるミキサーの置かれたコントロールルーム。レコーディングスタジオとしてはこの二部屋で完結しているが、もうひとつスペースがあって、そちらには配信で使っているグランドピアノが置かれている。
もしかすると、この地下のスペースだけで億単位の費用がかかっているのではないだろうか。防音設備だけでなく、レコーディングのための機材、湿度管理のための空調設備、楽器などなど。私は音楽関係のエンジニアではないから詳しくないけれど、ざっと見積もっても目が回りそうな額になる。
和花ちゃんからここにあるものは好きに使っていいと言われているが、もし壊してしまったらと思うと恐ろしすぎるので、よくわからないものには絶対触れない。
おそらく元からあった設備をさらに和花ちゃんが充実させていったのだろうが、初期の段階でもそれなりの設備が整っていたはずだ。改めて、不思議な家だな、と思う。
「和花ちゃんのお父さんは、専門は絵画だったはずなんだよね……」
趣味で音楽をやっていた可能性もあるが、これはさすがに趣味の範疇を超えている。飾くんの話では、父親の教育方針に基づいてこの家を建てたらしいという話だったが。
さすがに、今私が持っている材料では答えには辿り着かないか。
詳しく訊こうにも柏木の家には今、私ひとりしかいない。平日だから当たり前だ。みんなは普通に高校に行っている。私は通信制の学校だから自分のペースで進められるけれど、誰もいない平日の日中が一番暇なのでその時間に早々に勉強を済ませてから、ギターの練習をしていた。
相棒のテレキャスターは、水曜日に届いた。それまでは和花ちゃんがメインで使っているギブソンのレスポールを使わせてもらっていた。相棒に比べると、ストラップを通じて肩にかかる重みが全然違う。弾き心地も音色も、ギターそれぞれに個性があって面白い。
ちなみにだが、和花ちゃんの楽器の腕前はどれをとっても恐ろしいぐらい上手かった。歌も上手くて楽器も大体弾けるって、本当に音楽を仕事にするために生まれてきたみたいだ。
「幼い頃からそばにあるから、おもちゃみたいなもんだったんだよね」
「なにそれ贅沢な」
「私にとっては日常のひとつなんだ。だから別に、音楽を仕事にしたくて頑張ってきたわけじゃなくて、好きでやっていたらこうなってただけ」
そんなやり取りがあった。
歌手になるために死に物狂いで努力した私からすれば少々恨めしい話だったが、和花ちゃんは音楽バカになった結果いろんなものが欠落してしまっているので、釣り合いは取れている気がする。
嫉妬もなにも浮かばない。
嫉妬している暇があったら、その時間で練習したほうが将来的には得なのだ。
だから私は青春をかなぐり捨てるような努力をして、歌手になった。
そしていくつかの幸運が重なって、今がある。
忘れちゃならない、大切なことだ。
和花ちゃんの作曲は思いのほか順調に進んでいるらしく、今週末にはおおむね形になるらしい。
私は、私なりにやれることの幅を増やしていくほかない。
*
さて、こうやって黙々となにかに取り組む時間というのは往々にしてあると思うのだけれど、そういうときってどうしてか雑念というか煩悩というか、思わず言語化するのもはばかられるような邪念がむくむくと湧いてくることが多い気がする。テスト勉強とか、妙に気が立って落ち着かないみたいな感じだ。
ちょうど、家に誰もいないことがある意味では好都合だった。あるいは不幸だったのかもしれない。抑止力がないのは、むしろ危険だった。
ギター立てに相棒を置いて、スタジオから出る。誰もいないとわかっていても、足音を立てないようにしてしまう。
飾くんの部屋には、すでに何度か入ったことがあった。意外なことに、飾くんの部屋はあまり片付いていない。デュアルモニターとペンタブレットが目をひく机には、書籍やなにかの資料らしき紙束が山積みになっている。床の上にはあまり物はないけれど、逆にベッドの上はこちらも本や服でごちゃついている。
たぶん、自分の部屋だから、自分さえわかれば多少散らかってもいいと思う人なのだろう。大概そういう人は自分もどこに置いたかわからなくなるものだが、飾くんはどうなんだろう。
少し身構えながら部屋に入った。
「……あれ」
綺麗に片付いていた。ついでというように、机の上の物もさらっとではあるが整えられている。
それがどうしてか、不自然に思えた。
首を傾げつつベッドに向かう。
そのまま躊躇いがちに腰かけると、そのままゆっくりと横に倒れた。飾くんの香りに包まれた気分になる。
こうして考えてみると、ある意味素晴らしい環境で生活しているなと改めて思う。浮花川に来て今日でちょうど一週間になるが、不自由は一切ない。スタジオでギターの練習や歌の練習をして、気分転換に唯さんの喫茶店に行って、日中勉強してわからないことがあれば飾くんに訊いて。おそらく明日以降は、本格的に収録が始まる。まだ数週間は浮花川にいられるから急ぐ必要はないけれど、とはいえここまで気ままに暮らせていいのかと不安にも思う。
目まぐるしかったこの三年間と比べれば、今はそれぐらいあまりにも安らげる時間だった。
……はずだった。
「…………あれ、これって」
左手で、視界に入ったものをつまむ。
思わず黙り込む。
それは金色のものだった。三〇センチ以上はある細くて長い、艶やかなもの。
「……これ、絶対に榛名ちゃんの髪の毛だ」
それに気づくと、いろいろな可能性がよぎって雑念はどこかに飛んでいった。




