18.曇天
「柏木、ちょっと」
カラオケに行った二日後のことだった。
数学の授業が終わった直後、担当の先生に名指しで呼び出された。件の靖彦さんだ。ほかの生徒たちの前ではいい顔を見せていたけれど、連れ立って廊下に出たところで表情を変えた。
「おい、何を言いふらしやがった」
「先生、口調が崩れてますよ」
「お前の前だからいいんだよ。ってか話を逸らすんじゃねぇ」
誤魔化せなかった、残念。
「なんか、桃川と進藤から『教え子に手を出したやつ』みたいな扱い受けるんだよ。秘密を知ってるあいつらとの知り合い考えたら、お前がヒットした」
「偶然じゃないですかね」
「そう思って先に義妹に訊いたら『飾さんに訊いてください』って返された。どうだ、言い逃れはできないだろ」
「榛名が適当に言っているだけでしょう」
「いつまでも知らぬ存ぜぬを貫こうとすると、あとで唯にチクるからな」
「すみませんでした、なんでも訊いてください」
そう言われてしまうと、反抗できない。早々に白旗を上げると靖彦さんは得意げな顔をしていた。くそ、腹立つな。
「……あのな、教師としての面目を保つためにあまりプライベートを明らかにしてないってわかる?」
「別にいいじゃないですか。美人の奥さんがいるのを自慢すれば」
「来栖唯って名前は、現役の学生だった頃よりは落ち着いたけどまだ有名なんだよ」
「たまに榛名が唯さんの妹かって訊かれるみたいですからそうでしょうね」
なんなら、来栖音葉の親戚かどうか訊かれるよりも多い。学生だった唯さんは、それはそれは華やかな人だったから。
「普通に美人の奥さんがいることを自慢すればいいと思いますけどね」
「そんなことしたら夜道に気を付けなきゃならなくなるだろうが。血気盛んな男子生徒を敵にしたくない」
「ほんと、靖彦さんが羨ましい。ころし……ど突きたくなります」
「すまん、すでに夜道に気を付ける必要があったんだな……」
靖彦さんは冷や汗を垂らす。
「ま、それは冗談です。ただ、正直に言うと、榛名の知り合いが増えれば当然その秘密はある程度漏れることだと思います」
「そりゃそうだが」
「俺に文句言ってる暇があったら、唯さんに見合う男になってくださいよ。……そうしないと、ほんとうに夜道に気をつける必要が出てきますよ」
俺が忠告すると、靖彦さんはぶんぶんと頷いていた。なんというか俺に怯えているように見えるが……ま、気のせいだろう。
こういう軽口を言えるのも、なんだかんだ靖彦さんとの付き合いが長いからだろう。教師の中でも数少ない、我が家の事情を知っているうちのひとりだ。
「ところで、本題なんだが」
「はい?」
真面目な表情になった靖彦さんに、首を傾げる。どうやら今までの話が本題ではなかったらしい。
「お前、いじめられてたりとか、しないよな」
「ん? ええ、まあ」
少なくとも、直接的な攻撃はまだ食らっていない。
「それならいいんだけどさ、最近お前の陰口を叩いてるやつらがいるっぽくてな」
「そうなんですか?」
「ま、さすがに本人に直接聞かれるように話す阿呆はいないみたいだが」
俺が気づいていないということは、そういうことなのだろう。
ただ、最近たしかに周囲の視線の温度が一層落ちている気はしていた。人への評価なんて水物だから勘違いという可能性もあると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「お前があまり深刻にとらえてないならいいけど」
「そう見えます?」
「ある程度は予想していたような感じだろ」
「ま、そですね」
茜との関係が少し改善した段階で、こうなることもあるだろうとは思っていた。
流れている悪評がどういうものかは想像でしかないが、おそらく中学時代に関する話だろう。
ある時期を境に落ちぶれてしまった柏木の兄の方。
自分を慕っていた茜をこっぴどく振って、友達付き合いも悪くなって、陰気になっていった。今になって、茜とまた話すようになって、また茜のことを傷つけるのではないか。
そんなところだろうか。
実際にそういう噂が流れているとしたら、噂を流しているのは中学までの同級生だろう。
「ま、なんとかなると思います。対処はそこまで難しくないので」
「……そうか? 今まで噂話に悩まされて退学してったやつらも少なくない。否定すると、余計にひどくなるし」
「否定なんて、必要ないです」
おそらくは、流れている噂は真実からは遠くない。もしまったく見当違いな噂が立っているのならそれは後から何も知らないやつらが面白半分で付け足したものだ。
少なくとも最初は、指摘のしやすい部分から噂が立つ。火のないところに煙は立たない。
「否定すると余計にひどくなるのは、そういうわけです。なので、否定はしません」
靖彦さんは、俺がこれから何をしようと思っているのか想像つかないみたいだった。俺は「なんとかしますので、あまり気を揉まなくて大丈夫ですよ」と言って靖彦さんの傍から離れる。
なんとかは、なるはずだ。
少なくとも他人が思うほど対処が難しいわけじゃない。
自分が変わればいい。
噂を真実だと思われないような人物に変われば、自然と噂は収束するはずだ。
教室の前から離れ、自販機の置かれた広めのスペースに辿り着く。そこの自販機で適当に飲み物を買うと、近くのベンチに座る。そばに見覚えのある男子がいた。夕ではない。長身で短髪のイケメン。そういえば、彼も夕と同じくバスケ部だった気がする。少なからず夕とも接点はあるだろう。
その不機嫌そうな顔に思わず溜め息を吐いてしまいそうになって、すんでのところで踏みとどまる。この状況下で攻撃の理由を与えるのは、あまりに間抜けすぎる。
「なんの用、春日」
春日幹也、というフルネームをよく思い出せたなと自分に感心した。
春日の気配はちょうど靖彦さんから離れたときに感じ取った。たぶんそこまで遠くないところで先生と話しているところを見ていて、警戒すべき先生がいなくなったタイミングで追いかけてきたのだろう。
春日は気づかれていたことに少し驚きつつも、一歩近寄った。
「茜のことだ」
と、短く言う。
春日は中学までの同級生だった。そして、高校二年になった今でも、春日は茜に対して片恋を続けているようだった。
そのこともあって、俺はずっと彼から敵意を向けられている。茜が誰に好意を向けていたかなんて昔から筒抜けだったわけだ。
「……柏木、今みたいに中途半端な気持ちで茜と関わるのはやめろよ」
「は?」
中途半端な気持ちだって?
そう問い返したくなったところを、唇を噛んで我慢する。
「俺から積極的に関わっているわけじゃない」
少なくとも、状況が改善し始めた頃から今の今まで
、自分から話しかけたことはない気がする。
「そういう問題じゃないだろ」春日は意外と冷静だった。「今の関わり方をしていると、また茜を傷つけることになるって言ってんだ。そのぐらいわかるだろ」
そのことぐらい、最初からわかっている。
なにを今更、という話だった。
「……今流れている噂ってのは、春日が流したもの?」
「んなわけあるか、どうして俺がわざわざ茜が傷つくことをするんだよ」
その春日の返答で、おおよその状況が把握できた。
ひとつは噂が流れていること自体は事実だということ。そして、春日本人が噂を流したわけではないということ。
おそらく春日は、俺に対する陰口が広まっていることに気づき俺に接触してきたのだろう。俺の悪評が流れれば茜は傷つくし、茜に関係のある噂も少なくない。よくも悪くも、彼は茜本位のつもりで行動を起こしている。だから考えがわかりやすくて、気持ちが悪い。
「恋に盲目なのは、少し羨ましいと思うけど……」
だからこそ、イライラする。
言いたいことだけ言って去っていった春日に対して、ぽつぽつと恨み節が出てくる。
自分が正しいと思って行動出来るのは、どうしてなのだろうか。自分がこれまでなにも間違ったことをしていないとでも思っているのだろうか。
俺には無理だ。
たくさん間違いをして、失敗も重ねて、今もたぶんやろうとしていることは正しいことではないのだろう。
でも、中途半端な気持ちのわけがない。
たくさん悩んで苦しんで、また間違うかもしれないと臆病になりながら、ひとりで頑張っているんだ。
そもそもすでに、もう誰も傷つかないなんて選択は残されていない。
だから春日は、表面上の情報だけをなぞってわかった気になっているだけだ。たったそれで、偉そうにしている。
「……ああ、もう」
なんとかは、する。
言われなくともそうするつもりだったし、部外者から何を言われようが予定に変更はない。
ただ、何も知らないくせに、まるで自分が何もせずに中途半端にしていると非難されるのは、正直きつかった。
頭を抱えて、うずくまって、溢れて出てきそうな激情をどうにか抑える。
もう少しの辛抱だから。
心の中の燃料はぎりぎりだけれど、まだ想定からは外れていない。
だから、今は少しだけ、ひとりにさせてほしかった。




