16.ダメな大人の忠告
結局二本あるマイクは、ほとんど和花とひなぎが独占していた。ときどきお互いの歌ばかりだと飽きるらしく、どちらかが榛名にマイクを渡す。すると古き良き洋楽が歌われる。たしかに、気分を変えたいときにはちょうどいい。
「それで、飾さんってクラスではどんな感じなんですか?」
「飾は、まあ去年の話だけど陰キャって感じだったな。『誰とも関わりたくないです』ってオーラを発してるタイプの」
「そうだったんですか。ま、たしかにあのぐらいの飾さんは一匹狼ぶってましたからね」
「おい」
誤算だったのは、榛名が三人にあっさりと心を開いたことだった。俺の友人だと説明すると「それならだいじょうぶですね」とどこかの誰かさんみたいなことを言って、話しかけに行っていた。なんでひなぎも榛名も、そこで安心しちゃうんだよ。もっと警戒心を持ってほしいぐらいだ。
「あまり余計なことを話すな」
「隠してばかりいると、誰かが横取りして勝手に話しちゃうもんですよ」
「別に俺が一匹狼ぶってたことは明かしたいことじゃない」
榛名の表情はあまり動かないけれど、小悪魔みたいだと思った。
「それで、来栖さんは飾と付き合い長いの?」
茜が訊く。
「いえ、飾さんとはそこまで付き合い長いわけではないですよ。和花とは昔から付き合いがありましたが、飾さんとはまだ数年です」
「そうなんだ」
「ええ。榛名は活動的で浮花川の外にもよく出張ってきてましたが、飾さんは自宅の警備で忙しかったですからね」
「人を無職みたいに言うなよ。適材適所だ」
親も妹も家を空けるなら、自分が家にいなければならなかった。それだけの話だ。それに無職というよりは主夫だ。あの頃はまだ小学生だったけれど。
「……というかさっき衝撃の事実をさらっと言われたけど、来栖さんって柏木くんの家に住んでるのよね。お姉さんが住んでた影響だって聞いたけど」
榛名は頷く。
「元々は姉の家に住む予定だったんです。ただ、わたしが浮花川の高校に進学するのが決まった直後くらいに結婚しちゃって、あいつ」
新婚の夫婦の家には住めないでしょう、と榛名は言い切った。前も言っていた通りそれは本心からの言葉だろうが、真意は異なっている。
唯さんが結婚したこと自体には不満を持っていただろうが、はなから微塵も、唯さんの家に住むつもりなんてなかったはずだ。
音楽をする環境はうちのほうがはるかに整っている。それに、怪我をした和花の世話をする必要もあった。
そのことを訊かれるたびに姉の結婚を理由にするのは、姉をとられた嫉妬心を相手に隠すためだろう。
「ちなみにですが、姉の結婚相手はお三方の担任ですよ」
俺と茜と笠原を見ながら、榛名は不満を共有するように言った。
「……え、それって佐伯先生?」
「はい。姉は、靖彦が新任のときの生徒で」
「佐伯先生、生徒に手ぇ出したの!?」
茜があからさまに動揺していた。
靖彦さんはまだ三〇手前で比較的若く、いかにも真面目そうな先生だった。
太い黒縁メガネをかけた柔和な顔つきと、髪染めはしていない短く切り整えられた髪。背は男性の平均身長より高く、大学までバスケをしていたとのことで肉付きもよい。
真面目そうだからといって、授業が退屈なわけではない。担当しているのは数学だが、数式や計算のことばかり教えても生徒のためにならないことはわかっているので、自身が現役のときにどう学習したのかや、授業にはまったく関係のない雑談も駆使して生徒に飽きさせないように授業している。ときどき発するブラックジョークも、ある意味よいアクセントで、それもあって生徒たちからの人気が高い。
なにより、浮いた話がないのだ。
噂好きの若人どもは教師のスキャンダルに飢えている。たとえば生物の先生が英語の先生と付き合っているとか、国語の先生が浮気して離婚したとか。自分らの高校だけでなく市内の高校の情報までなぜか知っていて、その情報網の広さに戦慄したのを覚えている。
ただ、靖彦さんにはそういった情報が一切ない。
結婚指輪もしていない。市内で見かけても大体ひとりで、複数人でいるときは男性の同僚ぐらいなものだった。哀愁漂わせてスーパーで総菜を買っていた、という情報もあるらしい。だから結婚相手がいるとは、茜たちも思っていなかったはずだ。
「……現実はただ残酷で、唯さんが仕事人間だからひとりの時間が多いだけなんだけどね」
遠い目をしながは俺は補足した。
唯さんは休日も喫茶店で働いていて、ときどき夜間もバーで働かされている。なんなら収入は教師の靖彦さんより唯さんのほうが多いし、唯さんと住んでいる一軒家もローンなしで唯さんが買ったものだ。
一応先生の名誉のために補足させてもらうけれど、さすがに付き合い始めたのは唯さんが高校を卒業してからのはずだ。今はほったらかしにしていることが多いけれど唯さん側のひと目惚れで、高校卒業後まもなく猛アピールを開始したと本人から聞いている。
ただ、三人に靖彦さんのフォローはしてやらないけれど。
「……」
「なんか、飾が不機嫌になってない?」
「なってない」
夕の言葉に食い気味に反論する。
言うな、言わないでくれ。
榛名以上に唯さんの結婚にショックを受けていたのが俺であると、気づいてほしくなかった。
「これでも、飾さんは姉に懐いていたみたいなので」
「あ、たしかに唯さんには結構懐いてた気がする」
うちに遊びに来た際に唯さんと会ったことがある茜が、いらない補足を入れやがる。夕と笠原はそれを聞くと、にやにやと腹の立つ表情をして俺を見た。
「……ははーん、好きなお姉さん取られて嫉妬してるんだぁ」
「うるせぇ」
「からかわないであげよ、夕。珍しい一面知られたと思ってなにも言わずこっそり笑ってあげるのが、一番上品よ」
「それが一番性格悪いからっ」
上品もくそもない発言だった。
*
「……ちょっと涼んでくる」
ひなぎたちの熱狂に当てられて、身体が熱くなっていた。色々と想定していなかったこともあったので、状況の再確認も必要だった。
ひと言断りを入れて部屋から出る。
腕時計で時間を確認すると、すでに午後七時。夕食はすでに食べ終えておりお腹は膨れている。さすがに午後九時までにはみんなを自宅に帰させたいので、あと一時間少々といったところか。
「よう少年」
「……まだいたんですか?」
ろくでなしの飲んだくれ……ではなく、ここのオーナーである律さんが酎ハイの缶を片手に挨拶してくる。彼女はこれでも忙しい身のはずなのだが。
「声のトーンが『いないでほしかった人』に対するトーンなのだが」
「実際そうじゃないですか。友達にろくでもない大人の姿をあまり見せたくないんですから」
「はは、これは厳しい」
紛れもない事実だから、言い返しもしない。律さんはカラオケのフロントの喫煙室の扉に背をもたれる。
「どうだ、一杯飲むか?」
「未成年飲酒を勧めるな」
「半分冗談だ」
「半分本気で言っているみたいに聞こえるんですが……」
「そりゃそうだろう」
当然とでも言いたげな顔だった。やっぱりろくでもない大人だ。
「……思うんだよ。子供が全力でがんばってるのに、自分たちは日々のストレスを酒で誤魔化している。毎日ぱーっと気持ちよくなってすべて忘れて終わりにしているのに、子供たちには白々しく『逃げるな』『頑張れ』って言ってんだ。そういうのって、ずるいだろ」
「だからって未成年飲酒を勧めていい理由にはならないでしょうが」
「飾なら必ず断ってくれると思ったからな。断らないろくでなしにゃあ言わんよ」
「あなたが言いますか」
俺が知っている中で一番のろくでなしなので、信用してはいけない。
「ま、大人は子供に理想を押し付けているんだよ。でも、その当の大人たちは子供のお手本になるほど良い大人じゃねーんだよな。二十代のやつらを見てみるとよくわかるけど、大人なんてものは子供の延長線にあることをまったく理解してない。二十歳超えていっちょ前に大人になった気になって、酒と煙草、それから性関連のことで失敗してばっかだ」
「聞きたくないです」
「ちゃんと聞いとけ、生々しいけどな。私のいた大学じゃあ、悪酔いで店を出禁になったり煙草じゃなくて薬やったりしたやつもいたよ。浮気で警察沙汰になったって話も、デキ婚で大学辞めてった話もある。ちなみにデキ婚したやつはその後パートナーの浮気で離婚してシングルマザー。笑えるよな」
「笑えません」
全然笑える話じゃなかった。思い描いていたキャンパスライフ像が崩れ落ちていく。……大学行くのが怖くなってきた。
「そこそこ偏差値高い大学でこれだぜ? 結局学力なんてパラメータはお飾りでしかなくて、その当人らのモラルとか人間性次第なんだよな」
「本題からズレてます」
「おっと」
始まりは、なんで未成年に飲酒を勧めたのかという話だったはずだ。
「ま、いつも立派でいるのも疲れるだろうから、適度に気を抜いとけよって話だ。ろくな大人なんて滅多にいないんだから、お前もしっかり者でありすぎる必要はないぞ」
「もう、そういうのは中学で卒業しましたよ」
周りからの期待に応えようと努力するのは心底疲れるのだ。まして自分は、大してキャパシティが大きくない。他人を気遣ってばかりで自分自身や本当に大切な人のことが疎かになったのだから目も当てられない。
だから、他人に対する優先度を見直した。
距離を大きくとって自分の視界に入ってこないようにすることで、少ないリソースは本当に大事なことだけに回している。
「わかってないなぁ、飾は」
「なにが」
「それは、全部ひとりで背負って、全部なにもかも自分で解決しようっていう、傲慢な臆病者の考え方だよ」
はっとした。
「誰かと関わるのが怖いって気持ちはわからなくもない。でも、普通の人は自分で背負いきれないものができたら、周りの人と一緒に背負うもんだ。ひとりで解決できるからいいってもんじゃない。そうやって全部ひとりで背負っちゃったら、いつか潰れるぞ」
「……」
潰れる、と律さんは言ったけれど、実際はすでに一度潰れている。
妹が大怪我を負ったときだ。もう、妹しか家族はいなかったのに、その妹すら喪ってしまうのかと思うと、だめだった。
結局命に別状なくて、日常生活に戻ることはできる怪我だったのだけれど、どうも心が追い付かなかった。正直、あのときの記憶はあまりない。ただただ、廃人のような状態だった。
「だからさすがに、『家族が交通事故に遭って死にかける』以上の衝撃が来ない限りは大丈夫だと思います」
「……さすがに、あれは酷かったけれども」
事情を知っている律さんは、表情を歪める。
「別に今は一時期ほどひとりで背負いこんでいるわけじゃないので大丈夫ですって。榛名もいますし」
「そうかぁ?」
律さんは全然信用してくれなかった。




