10.ひなぎと榛名
戻ってきた唯さんと入れ替わるように、俺はバイトを切り上げた。太陽はすでに傾いていて、景色が全体的に赤い。
「結局ずっとバイトに付き合わせちゃったけれど、飽きなかった?」
「全然! 誰かが働いてる姿見るのって楽しいねっ」
「じっと見られ続けるのは少し恥ずかしいけれどね」
でもまあ、俺も楽しかった。普段、唯さんがいない間はひとりなのだ。お客さんと世間話をすることはあるけれど、客の年齢層が高いため話が合わない。基本は聞き手に徹している。
お客さんがいないときも、ひとりでむつむつと皿を洗ったり帳簿をつけたりしている。だから話し相手がいるだけで、まったく退屈な気持ちにならない。
「……私、たくさん美味しいもの飲んだり食べたりしちゃったけど、ほんとにお支払いしなくていいの?」
「今日はいいよ」
喫茶店に一日居座って、ひなぎが飲んだり食べたりしたものの合計額を概算すると、まあ五千円には満たないぐらいだった。稼ぎは結構あるので、普通の高校生には痛い出費だろうが俺からすれば大した出費ではない。
「今度、なにかでお返しするよ」
「じゃあ、スマイルひとつ」
「まいど~」
一億円の笑顔をもらったせいで、目が焼けるかと思った。どうにかこうにかスマホで彼女の笑顔を撮る。待ち受けにはしないが、家宝にはさせてもらおう。
「ちょっと寄りたいところあるんだけれど、いい?」
「いいよ。なになに、どこ行くの? その辺の路地に連れ込まれちゃったりする?」
「んなことするか」
とんでもない冗談をねじ込んでくるひなぎを一蹴し、近くの自販機に向かう。適当に一本スポーツドリンクを買って、ついでにひなぎにもジュースを買ってあげた。
目的地は、駅近くの広場だった。
浮花川で最も栄えているところの、その中でも一番の中心部。この近辺にはホテルや旅館、ちょっとお高めな飲食店、バーや居酒屋、などなどが立ち並んでいる。規模としてはさすがに首都圏のものとは比べるまでもないけれど、旅行客が夜に立ち寄る場所に向いているところだった。
この広場では、定期的にイベントが行われている。
地域の高校生らの発表の場としての側面も強いが、プロを呼んだパフォーマンスも年に数回行われている。そのたびに屋台が並ぶので、適当にたこ焼きでも買って食べながら眺めるのが楽しいのだ。
そういったイベントがない日の、それこそ夕方の時間帯は閑散としていることが多いけれど、今日は結構な人だかりがあった。
その理由は、近づいていくとすぐにわかった。
アコースティックギターの音色が、鼓膜を揺する。そのやさしくもパワフルな音に重ねるように歌う少女の姿は、圧巻のひと言だった。
弾き語るのは音楽の教科書にも載ったビートルズの名曲。
プロにも引けを取らない少女のパフォーマンスに、近くを通りがかった人はつい足を止め見入ってしまっている。
自身もプロで、ほかのプロの演奏もたくさん聴いてきたであろうひなぎすら言葉を失うほどのパフォーマンスだから当然かもしれない。
来栖榛名の弾き語りに、今ここにいるすべての人が魅了されてしまっている。
*
五曲ほどを歌い上げ、大雨のような拍手を全身で浴びている榛名は、何事もなかったような涼しい表情で自身のギターをしまおうとしていた。チップを差し出そうとする人もいるけれど、榛名は「高校生ですから」ともっともらしい理由で断っている。
でも、お前の手にあるテイラーのギターは、高校生が握るにしてはあまりに高価すぎるだろうが。テイラーの800シリーズを持っている高校生なんて俺は榛名ぐらいしか知らない。
ほかの人たちからすればゲリラライブだったろうが、自分からすればその予兆はあった。
少なからずひなぎに対して対抗心を燃やしているように感じたのだ。表情の変化が大きくなく、目立った行動の変化というものもほとんどなかったけれど、ひなぎに向ける視線が少しだけ違ったような気がする。
浮花川で弾き語りできそうな場所も限られているから、今日ならここだろうと予測を立てた。労いの飲み物も買っておいたのだけれど予想は、正しかったようだ。
人が散るのを待ってから、榛名に近づく。持っていたスポーツドリンクを投げると、榛名は器用に左手でキャッチした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
榛名は無地のタオルを取り出すと、額に流れる汗を拭う。頬にも金髪が張り付いているけれど、榛名は気づいているだろうか。
「あの、榛名ちゃん」
「はい?」
「すごかった!」
ひなぎは感動したまま榛名の両手を掴むと、ぶんぶんと縦に揺さぶる。榛名はきょとんとしている。
「選曲がもう私の好みにばっちり嵌まっててサイコーだった! なにそれ、なんで洋楽ばっかなのっ?
もっと最近の邦楽歌えばいいのに、結構歳食った人にしか刺さらないよそれっ」
榛名の予想していた反応では、きっとなかっただろう。ひなぎは感動で笑いっぱなしになりながら、榛名を撫でたり抱きしめたり頬寄せたりしている。
「歌もギターもどっちもプロ級だよっ。いつか榛名ちゃんともデュエットしてみたいなぁ。あっ、私マネージャーに榛名ちゃんのこと紹介してもいい? 和花ちゃんのマネジメントしてるだけじゃもったいないよっ。ああでも、マネージャーなら知ってるかもしれないけどね、音葉さんの親戚だし」
「あの」
榛名は助けを求めるように俺を見た。
真っ赤に染まった顔。普段飄々としている榛名もここまで激しいスキンシップをされるとたまったものではなく、照れ半分、恥ずかしさ半分、うれしさ少々といった具合の感情が、わかりやすく表情に出ている。
その絵画みたいな情景に思わず感嘆をこぼす。
榛名から向けられるヘルプの視線には応えず、ポケットからスマホを取り出して、その様子を撮影していた。榛名はしばらくされるがまま、恨みがましい視線を俺に向けていた。
あとで彼女の機嫌を取るために少々高い買い物をすることになったのだけれど、後悔はしていない。




