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1.幼馴染み

 それが薄氷の上の平穏なのだと理解したうえで、甘んじて受け入れていた。


 父が死んでからもう少しで十年になる。

 今でこそ過去の人と化した父だが、かつては天才ともてはやされる画家であったらしい。いまだにどこかから発掘された父の作品がオークションに出品され、高値で取引されている。

 そのたびに思うのだ。

 血縁ほど荷が重いものはそうそうない、と。

 天才の子として見られることが多くて、昔から辟易していたのだ。妹ならともかく自分は、周囲から向けられる期待に応えるのは難しかったから。


           *


 考え事をしていて、ぶつかるまで目の前にバスケットボールが迫っていることに気づけなかった。

 ぐにっという鈍い音、派手に飛んでいく度の入っていない眼鏡、明滅する視界。


 一瞬時間の進みが極限まで遅くなったような錯覚があった。

 お尻からコートに倒れ込んで、その衝撃でやっと顔面でバスケットボールをキャッチしたことに気づいた。


「……あちゃー」


 珍しくやらかしたなぁ、とぼんやりと思いつつ、視線を下に落とす。ぽたぽたとジャージに血が垂れていて、いくつもの染みができあがっている。洗濯で血を落とすの、結構大変なんだよな、なんて呑気に考えてしまう。


 結構派手にぶつかったのに、意外と頭は冷静だった。四つん這いでレンズの割れた伊達メガネを拾うと、心配したように周りに数人のクラスメイトが集まっていることに気づく。


「だ、大丈夫?」

 控えめな心配の声が聞こえた。顔も見ずに「だいじょうぶ」と答えると、その少女は不安そうに「ほんとう?」と心配の声を重ねる。


 元気なことをアピールするために立ち上がってひらひらと手を振る。ただ、思いのほかダメージは深かったようですぐに立ちくらみがやってくる。押さえていた手もなくなったので、鼻血の出る勢いが少し強まってしまった。


「全然だいじょうぶに見えないんだけど」

 と、そいつは少し引いていた。周囲の人たちもぎょっとしている。


 見かねたように茶髪の男子が近寄ってきて、俺のジャージの袖を掴んだ。

 呆れたような表情。高校でできた数少ない友人の進藤夕だった。明るい茶髪、一八〇センチを超える恵まれた身長。中学まではバスケ部で友人も多く、それに相応しいルックスと明るくて親しみやすい性格をしている。


 意図的に悪く言うなら、女子に好かれそうなやつだった。

 根暗な俺とあまりにも正反対な性格をしているから、逆に上手に付き合えているのだろう。

 夕は少し遠いところにいた体育教師に「こいつダメそうなんで保健室連れていきます!」と声を張る。先生は頷いて返事をすると、さっさと行けと言わんばかりに体育館の出入り口に視線を向けた。


「うす。それじゃ茜ちゃん、こいつちょっと借りるから」

「あ、うん。お大事にね」


 心配そうな少女の視線を背中に感じながら、俺たちは体育館を出た。

 痛みはまだ続いている。頭がくらくらしていて、足元もふらつく。鼻血の勢いも弱まらない。

 本人には言わないけれど、助かった、と思った。


「大丈夫かよ」

「あまり」

「だろうな」


 夕はポケットからティッシュを取り出し俺に渡した。

 こういうささやかな心配りをできるのが、女子から好かれる要因なんだろう。もっとも本人は告白されても全部振っているみたいだが。

 授業中の静かな廊下を歩いて保健室に向かう。ある程度辛さが引いてきたところで、夕が肩を竦めて言う。


「あのなぁ、別れたばかりで気まずい二人、みたいな空気を出すなよ」

「嫌な表現やめろよ」

「傍から見りゃ事実だろ」

「そうかもしれないけれど」


 夕は、俺と少女のやり取りに呆れていた。

 しょうがないじゃないか、と心のなかで呟く。


 疎遠になっていた幼馴染みに、高校二年のクラス替えでひさしぶりに同じクラスになった。おおよそ三年ぶりに接点が生まれたのだ。逆を言えば、まるっと三年会話がなかった。だからどういう付き合い方をしていけばよいのか、わからないのだ。


 幼馴染みの桃川茜は、我が家からほど近いところにあるケーキ屋のひとり娘で、休日にはその手伝いをしている。彼女の両親と自分の父親は旧友だったらしく、その影響もあって昔から家族ぐるみの付き合いだった。休日はケーキ屋の手伝いをしているが、さすがにまだ店に出すほどの技量はないらしく接客をしながら特訓中とのこと。


 ちなみに、うちの高校は基本的にバイト禁止だ。特例として生活が困窮しているか、あるいは親類の手伝いであれば申請を経てバイトをする許可がもらえる。

 だから彼女がケーキ屋で働いているのも、生徒間では周知の事実らしい。茜が手伝い始めてから、学生からの売り上げが増えたのだという。


 そういう話を妹からは聞かされている。


「あのな、飾。お前から見ればそうでもないかもしれないけど、茜ちゃんは結構男子の間でも人気なんだぞ」

「それはまあそうだろうね。かわいいし、愛想はいいし」

「それが、今年になってから様子がおかしくなったって言われてんの。誰のせいかは言わなくてもわかるよな」

「わかりません」

「よし、わかってるな」


 些細な抵抗もむなしく、夕はそのまま話を進めてしまう。


「俺はお前ととなりのクラスになっちまったから体育の授業くらいでしかお前と一緒じゃないけどよ、燈子からよく聞くぜ。『茜が変、ときどき挙動不審になる』って話」

「そうですか」

「他人事みたいに言うなら茜ちゃん本人にどういう関係か訊いてくるからな」

「それはやめて」


 思わず慌てて引き留めてしまった。したり顔を浮かべる夕が腹立たしい。今の自分の行動は、あまりに迂闊だった。


「べつに、特になにもないから」

「……それ、なにかあるときの反応だろ」


 夕はジト目を向けてくるが、今はなにも答えられない。数秒間見つめ合って、夕は観念したように息を吐いた。


「……まったく。ああはい、わかりました、夕さんは人心があるのでこれ以上追及はしません」


 その言葉にほっと胸を撫でおろした。

 茜との関係は、幼馴染みというひと言で言い表すにはちょっと込み入っていて、他人に打ち明けるにはなかなか勇気がいるのだ。

 夕の話した通り、元々付き合っていたわけでも別れたわけでもない。むしろ、そうであったほうがシンプルだったと言えるくらいだ。

 だから三年間も疎遠になっていて、少しずつ会話が増えてもいまだに距離感が掴めない。


「……俺が悪いだけだから」

「ん?」

「気まずくなって避け続けたのは自分だからさ、そこは勘違いしないでもらえると助かる」


 それが本心だった。

 今の自分が周りから見れば印象が悪いことだって、ちゃんと理解はしているのだ。茜の印象が高くなっていくのと比例して、どんどんと自分の評価が悪くなっていっている。

 だから自分の気持ちに少しは妥協して、茜の態度に応えるべきだとわかってもいる。


「大体理解はしたよ」

 俺の反応を見て、夕は苦笑する。


「相応の事情はあるんだろ。飾はほんとうはやさしいからな」

「うわ、気持ち悪いこと言うなよ」

「こっちが気を利かせて慰めてやってるというのに」


 やさしい話し口調がよけいに気持ち悪かった。歩くスピードを速くして、逃げるように保健室に駆け込む。

 保健の先生はちょうど留守みたいだった。

 肩の力を抜く。


 目元にかかるくらいの前髪が邪魔だったので、ポケットからピンを取り出して前髪を留めてしまう。すると、背後から鏡を覗き込んだ夕がぎょっとした表情を見せた。


「……不意打ちはちょっとずるいよな、お前の顔」

「なにもずるくない。元からだし」


 鼻の周りが血だらけなことをぎょっとされたわけではない。それはたぶん、体育館で近寄ってきた人たちも同じだろう。

 近くの丸椅子に座ると、保健室の姿鏡に映る自分の姿がよく見えた。


 鼻血のせいで少々見苦しい姿ではあるが、それは誰が見ても少女にしか見えない顔立ちだった。


 普段は、この顔を見られたくないがために伸ばした前髪で目元を隠している。後ろ髪もきれいに結べるくらいには長く、傍から見た印象は陰キャだろう。

 だから、素顔を見て驚かれる。


「普段からその顔出してればもっと人気出ると思うんだけどな」

「人気がほしいわけじゃない。ほしいのは平穏だけ」


 できることなら、落ち着いて暮らしたい。

 目立つのは、妹のような華のある天才の方がよいはずだ。

 夕はまた肩を竦める。でも特にそれ以上なにも言うことなく、そばの丸椅子に腰かける。


「お前は早く授業に戻れよ」

「いーや、お前が心配だから授業が終わるまでここにいさせてもらうぞ」

「それはさぼるための方便だろ……」


 夕は俺の言葉なんて意に介さず、別の話題を切り出す。近くのティッシュを鼻に詰めながらその話を聞く。


「今日、バイトどうするんだよ。さすがに休みか」

「ん? いや、今日は元々バイトのシフトは入れてない」

「え。アルバイトが生きがいだとでも言いそうな柏木飾くんが、シフトを入れてないなんて」


 夕は心の底から驚いていた。どうしてそんな反応するんだよ。


「いや、昨日藍沢ひなぎの新曲のMVが出ただろ。その感想を話したくてさ」


 要するに、元々の彼の予定では俺が喫茶店でバイトをしている最中、その邪魔をしながら好きなアーティストの話を語るつもりだったらしい。なんて迷惑な。


「だって、お前の作る料理ってなんでも美味いじゃん。話をしながら美味しいもん食べられれば最高にハッピーだろ」

「仕事の邪魔をされる俺の気持ちも考えてくれ」

「うれしいくせに」

「……」


 殴ってやろうかと思った。ちょっと図星だったからだ。

 すんでのところで踏みとどまって腕を組む。


「それで、なんで今日は元々シフト入れてなかったんだよ。バイトより優先しなきゃならないことがあったってことだろ、それって」

「ん、あー、うん」


 考え込む。

 どこまで話してよいか。


 これは同居人から指示されたことだった。

 妹と同い年で、今年から同じ高校に通う高校一年生の少女。少し事情があって、まだ夕にすら一緒に暮らしていることを明かしていない。

 俺はいろいろあって彼女に頭があがらない。だから拒否なんてできるわけがない、なんて正直に言えるわけもなかった。


「……んと、その。『お姫様を迎えに』ね」

「ああ、妹ちゃんね。そういえば今日休みか。その妹ちゃんの迎えってことだろ」


 夕の返答に苦笑で答えると、誤解されたまま話が流れる。

 それでいい。

 今回に限って言えば、あまり公にはしたくない事情があるのだ。

 しばらくして先ほど夕が話題にあげた歌手の新曲の話に移ると、ぼろが出ないように気をつけつつ適当に話を聞いていた。


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