そこにいる
ああ、まただ。勘弁してくれ。
ひた、ひたと足音がする。近付いて来た「それ」が、寝転がった身体にのし掛かる。
何も見えないのに、「何か」がそこにいる。
身体は動かない。声も出せない。いつもの、典型的な金縛りだ。
事故物件だけは選びたくないから、ネットで散々目当ての物件が「該当」していないか調べた。
……それなのに。
胸の上の「何か」が俺をじっと見下ろしている。見えないけれど、視線を感じる。
昔からそうだ。俺は「こういうの」を感じやすい。
頼む。どこかに行ってくれ。
そう念じ続けていると、やがて、身体の上の気配は薄れていった。
良かった。これで、ようやく眠れる……。
***
俺は幼い頃から金縛りに遭いやすく、「厭な気配」を感じることが多かった。
霊感が強いんだろう。おかげで、常に慢性的な寝不足と気怠さに悩まされている。
実家には明らかに「いる」のが分かっていたので、大学に入った時、逃げるように一人暮らしを始めた。……が、そこでも似たような目に遭った。
後から聞くと、あの安アパート、事故物件だったらしい。あくまで証拠のない噂の類だが、そこに何かが「いた」のは間違いなかった。
とはいえ、貧乏学生にはホイホイ引っ越すほどの資金はない。渋々数年間耐えて、就職を機に別の物件へと引越した。
今度は念入りに下調べをして、絶対に事故物件だけは選ばないと心に決めていた。……そして、結果はご覧の有様だ。
また引っ越すか……と、途方に暮れていた時、実家から連絡があった。
何でも、お袋が身体を壊し、俺に会いたがっているらしい。
気は進まないが、そういう事情なら帰らないわけにも行かない。週末に向かうと返事をして、カバンに衣服を詰め込んだ。
***
実家に「いる」のはよく理解している。
何度も気配を感じ、何度も不審な音や声を聞き、何度も影や悪夢を見た。
けれど、そんなものは今の自宅だって同じだ。
ラップ音もあるし、金縛りもある。何なら自撮りすれば高確率で心霊写真になる。
半ば自棄になりながら、俺は実家のインターホンを押した。
***
「幽霊? ……ああ、なんか、昔からそんなこと言うてたな」
母と顔を合わせると、存外元気そうだった。
それとなく心霊現象の話をすると、面倒くさそうな返事が返ってくる。
「あんたなあ、気にしすぎやねん。幽霊なんておらへん。気のせいや」
幼少期から、母はずっとこの調子だった。
不思議なもので、親子で霊感が遺伝するわけではないらしい。
「……でも、心霊写真は撮れたやんけ」
「最近は何でもかんでも『デジタル』にしよる。バグってやつやろ」
母が頑なに認めようとしないので、ついつい俺もムキになって言い返す。
「姉ちゃんも言ってたやろ。『この家なんかおる』って。姉ちゃんはまだ家おるんやろ?」
俺には二つ上の姉がいる。
彼女も、幼い頃から「変な音が聞こえる」「なんか見えた」などと、(俺よりは頻度が低いものの)心霊現象に遭うことが多かった。
それでも、姉は家賃支払いによる出費を渋り、多少時間がかかっても実家からの通学や通勤を選択した。俺には理解できなかったが、霊感が強くなかったから耐えられたのかもしれない。
「もう何も言うてへんで。普通に住んどる」
「慣れたんやろ」
「ほんなら、あんたはその心霊現象とやらに慣れたんか?」
「……慣れてへんけど」
「せやろ。あんたが気にしすぎるから、あの子も変に気にするようになってたんちゃうか」
母はあくまで、「俺の気にしすぎ」という話で終わらせたいらしい。
体調の悪い母にこれ以上議論を吹っ掛けるわけにもいかず、俺は、そのまま押し黙ることにした。
***
その後、姉から連絡が来て、母は「ただの風邪」だったことがわかった。
「全然帰省してこぉへんから、寂しくなってしもたんやろ」
メッセージアプリでの指摘に申し訳なさを感じながらも、俺は、どうしても長居する気になれなかった。
気付かないようにしていても、限界はある。
部屋の片隅。
間違いなく、「いた」。
俺を真っ直ぐに、じっと見つめる影が──
「……くそ」
毒づきながら、日の暮れかけた道を歩く。
実家にも、自宅にも安寧の場所はない。
いっそホテルにでも泊まるか……と、思っていた時だった。
ひた。
ひた。
足音が、聞こえた。
いつもの心霊現象だ。
気にしないふりをしてやり過ごすしかない。
溜息をついて、スマートフォンを取り出す。
とにかく、気を紛らわせたかった。
姉からのメッセージに、続きが届いている。
「そういや、お母さんに言うてんて? 『心霊現象』のこと」
「お母さんの言うこと、ほんまやで。もう家には何もおらへん。変な音も聞こえへんし、変な影も見えへん」
「びびってへんで、気が向いたら帰って来ぃや」
──じゃあ。
俺が見た「あれ」は、なんだ?
足音はもうしない。
いつもの如く、寝不足の気怠さがずしりとのし掛かっている……だけで……
違う。
気付かなかった。
何もかもが間違っていた。
「あれ」は実家に「いた」んじゃない。
自宅に「いる」わけでもない。
ずっと
昔から
そして、今も
俺の背後に──